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土曜日, 10月 06, 2007

アニメ:CLANNAD第1話

CLANNAD第1話。

結構期待している。予備知識ほぼゼロ。
 
泣きゲー原作ということは知っているが、ゲームはやったことないし、Air,Kanonといった京アニ先行作品も観たことない。

ハルヒにハマってからアニメ視聴頻度が激増したのだが、ついつい「なるほど、こんな演出もあるのか」といった感じで、アニメの作り方に気が行ってしまいがちになってしまっている。

これはいくない。
もうちょっと素直に作品に向き合ってアニメを楽しむ姿勢を取り戻さなくては。

そうゆう訳で、まっさら状態で視聴するCLANADを楽しみにしていたところの第1回。


ほうほうサクラ散る中のセピアオープニングからカラーへの転換でボーイミーツガール
    ・・・・・・って、ハルヒと似てるぞ。

おお、その窓際の座席はキョンの後ろだぞ、 
  望遠構図を揺らすのは、 
     屋上への視点は、 
        そのフォーカスは、、

って、

      もっと素直に作品を鑑賞しろぉ >自分


 いやね、放送第2話「憂鬱Ⅰ」は、ほんと、DVDが擦り切れるほど繰り返し観たのね、「見た目のカメラワーク」関係のエントリ、その他のために。 であるからこそ、今回のCLANAD第1話であらためてわかった。
 「憂鬱Ⅰ」は、実に石原監督のスタイルど真ん中であったのだ。

と、同時に今回は、その自分のスタイルを真っ直ぐに、奇をてらうことなく前面に出していくような意志を感じたよ。

 今後がほんとに楽しみである。


あと、エンディングの歌とアニメが、すっごく良かった。 みんなの歌みたいな感じなんだけどね。

たぶん、この作品は家族がテーマなんだろう。きっと話が進むにつれてさらに心に染みてくるエンディングになりそうだ。

月曜日, 8月 20, 2007

映画:「夜のピクニック」 原作イメージを見事に映画化

「夜のピクニック」の原作は第2回本屋大賞受賞作であり、詳細については改めて説明するまでないだろう。24時間かけて80キロを歩くという「歩行祭」を舞台にした青春ドラマを描いたものである。

 正直言ってこの映画、表面的な演出はすべりまくっている。

 カメラワークは説明過剰だし、ギャグやコメディはベタベタでグダグダであり、挿入されるサブエピソードもメインプロットとうまく絡んでこない。

 おそらくは、製作サイドが、特に大きな山場のない原作ストーリー(だからといって面白くないわけでは全然ないのだが)に映画的メリハリをつける、とか、青春モノとしてのお約束のパターンを入れよう、とかして結局滑ってしまった、という、よくある失敗パターンの典型のような気がする。


 が、しかしこの映画はやはり佳作として評価されるべきものだと思うのだ。

 それは、この映画では、歩行祭という非日常的なイベントの空気感が、フィルムの隅々にまで刻みこまれているから。この点につきる。

 特に大きな山場がないというのは原作でも同様なのだが、それは歩行祭というイベントそのものが物語の主体であるためだ。
 丸一日かけて長距離をひたすら歩くという極限状態の中では、日常の外面は脆くも剥がれて真に近い人間性見えてくるのであろう。この作品では、そのような極限の状況下で展開する、主人公達の精神的な葛藤と、“あるわだかまり”の解消、が実にうまく描けているのである。

 表面的な演出がことごとく滑っているにも関わらずこの映画が原作の空気感を見事に表現できた要因のひとつはキャスティングであろう。
 主役の多部未華子は言うに及ばず、石田卓也(時かけの千昭のCVだ)、西原亜希(JR東のSuicaキャンペーン)、加藤ローザは本当に原作のイメージにマッチしている。郭智博(戸田忍 役)だけは原作のイメージ(時かけの浩介みたいな感じ)とちょっと違ったが、映画的には石田とのバランスがうまくとれていたと思う。キーマンであるところの役どころを実にいい感じでこなしていた。

 そして、この映画を佳作ならしめた最大の要因は、多部未華子が提案したという“プレ歩行祭”の実行なのだと思う。主要キャストとスタッフで、ほんとに60kmぐらいの歩行祭をやってみたらしい。この映画で表現されている空気感はそこまでやった経験の賜物なのだろう。
 仮に、脚本の過剰な枝葉を排して、役者の力量と観客の読解力を信じて淡々と演出していればあるいは、「リンダ・リンダ・リンダ」の向こうをはった傑作ともなり得たのではないかと思う。そこがちょっと残念だ。


 わたしがこの映画を昨年公開初日初回に茨城の某所で観た時のことであるが、上映後に後ろにいた二人連れのおばさんが

 「ちょっとの間、青春時代に戻ったね」

と感慨深げに話をしていた。あるいは水戸一高のOBで(歩行祭のモデルである)“歩く会”の経験者だったのかもしれない。

この映画のキャッチコピー「映画を観ている間は18歳に戻れます」は伊達ではないなぁ、と思った。

おまけ
・「ピクニックの準備」という前日譚のショートムービー集も一見の価値がある。主要人物ごとの前日のお話である。これは元々は映画宣伝のためにネット配信されたものであり、事前に観ることを前提に作られているようであるが、後から観ても充分面白い。機会があればチェックしてみて欲しい。
(追記:ピクニックの準備を詳しく紹介したブログがあった⇒ブタネコのトラウマ
 なお、恩田陸の短編でも同名の「ピクニックの準備」という作品があるが、こちらは本編の予告編というか習作という感じのものであり、上記のムービーの内容とはほとんど関係ない。

   
・ちなみに「夜のピクニック」は8月22日(水)24:20~ (木曜0:20) 
 WOWOW で放送されるので視聴可能なかたは是非チェックされたし

・また、たまたまであるが、この映画の舞台である水戸のそば東海村で上映会がある。
 近隣の方はもちろん遠方の方も映画をみて歩行際の舞台を確認してみては。
 入場料500円とお徳。

 東海ワンコイン劇場「夜のピクニック」
 8月26日(日)、午前10時、午後1時、3時20分、5時40分 500円
 東海村船場の東海文化センター(TEL029・282・8511)。
※日時や内容などが変わることもあります。主催者にご確認のうえお出かけください。

水曜日, 8月 08, 2007

映画:トランスフォーマー スピルバーグのダークサイド本領発揮

トランスフォーマーを観た。

スピルバーグやりたい放題の映画。ご馳走様、と言うほかない。
世間的にはマイケル・ベイ監督の手腕が評価されているが、この映画のテイストは完全にスピルバーグのものだと思う。

トランスフォーマーの世界観と容赦ない地獄絵図のような戦闘シーン、幼児性と残虐性をエンタテイメント超大作で両立させ、しかも興行的に大成功させている。こんなことが出来るのは彼ぐらいのものだ。

市街戦描写は本当に凄い。非現実的なロボットが暴れていて破壊の限りをつくしているにも関わらず、直接には市民の被害の描写がない。だから戦闘の迫力を純粋に娯楽として楽しむことが許されているのである。どう観たって数百人単位で死んでるだろ、あれじゃ。

どこの戦闘シーンでもいい。仮に、人体損傷のカットを、いや血が流れるカットだけでつけ加えたなら、即プライベートライアン顔負けのR指定間違い無しのジェノサイドムービーになってしまう代物だ。けど仕上がりは大迫力のアクションモノ。
超映画批評では、

この映画の難点は、とくにラストバトルなど、トランスフォーマーが激しく動く際にカメラが寄りすぎて、逆に映像の快感度を下げている点だ。トランスフォーマーの動く速度のリアリティには相当力を入れたようなので、なるべくCGのアラが目立たないようにとの意味合いもあるのだろうが、こちらとしてはもっと引きの映像を入れてほしいと思う。

としているが、これはCGのアラを防ぐという目的ではないと思う。いくつかあった引きの映像ではどうしても怪獣映画の構図になっていた。特撮好き向けのロボットものとしてはそれでもいいのかもしれないが、やはりこの映画では、“圧倒的かつ理不尽な力に蹂躙される人間達”という視点を徹底したのだと思う。

それにしても、スピルバーグもうまいことバランスをとったと思う。
このバランスの実現については、マイケル・ベイの貢献が大きい。映像職人として弩派手なアクションシーンの構成力は、戦闘の激烈さを際立たせつつ、スピルバーグの残虐性をうまく覆いかくしている。元々プロットもテーマもおまけみたいなものだから、まさにベイ向きの映画だったのだ。

・・・・えーと、褒めてますからね。一応誤解なきように。


予告編だといわゆる侵略(インベイジョン)SFっぽい印象が強いのだけど、そういうわけで、本編はいきなりの戦闘で、メガトロンvs米軍 ⇒ メガトロンvsサイバトロン+米軍、という流れであり、米軍のプロパガンダとしてもいい線いってる。

ラプターやオプスレイといった最新鋭機も出てくるけど、インパクトはAC-130ガンシップが最高だね。「空飛ぶ砲台」の異名は誇張でもなんでもなく、左舷にのみ装備された重火器105mm砲を左旋回しつつ地上の一点に叩き込む姿は米軍の攻撃シーンの中で一番迫力があった。あれ本物なんだよねえ。

そうそう、この映画ロボット達のCG以外は極力ライブアクションで撮影したらしい。実際、その効果は映像の迫力に充分発揮されていると思う。現実に起こりうるアクションについては、まだまだCGでは及ばないところがあるのだな、と認識した。

#なにげにT2(戦闘機じゃなくてシュワちゃんのやつね)へのオマージュがあったのは何故だろな?
 カマロから自転車で逃げるとこだ。

月曜日, 7月 30, 2007

「時をかける少女」は無謬である

「時かけ」は理屈抜きに面白かった。

で、今度は理屈で楽しんでみる。

とりあえず「死にたい」「欝になった」類のコメントは当人側の問題なので理屈でどうこうではないのでパス。

他のコメントではダメだししているものが結構あった。
どうやらこの映画に対する否定的なコメントのポイントは、タイムリープの矛盾・設定ミス・ご都合主義というところにあるようだ。

気に入った作品については、ポカも含めてそれを“真”としてこそ、理屈での楽しみ甲斐があるというものだ。
ちょっと指摘項目を肯定的に解釈してみよう。

以下、メインプロットのネタばれに触れので未見の方はご注意。



















指摘ポイント:
最後の千昭のタイムリープで真琴の記憶が残っているのがおかしい。他のタイムリープ描写では、タイムリープの当事者以外は時間が戻る前の記憶がないはずだ。

肯定的解釈:
千昭のタイムリープの描写は真琴のものと明らかに違う。時間停止状態に真琴を巻き込んでいる。これはつまり、真琴も一緒に過去に連れて行ったという解釈するほうが自然。
真琴のリープ残り回数が元に戻ることについては、残り回数が減るのはあくまでタイムリープの行使者の分という解釈で。
インタビュー資料に「タイムリープのチャージについてはSuica理論というのがあって・・」という表現があり、これはだれがチャージを負担するか、ということを指しているものと思われる。


念のために付け加えておくと、否定的コメントに反論とか議論をふるつもりは毛頭ない。
ひっかかった点を解釈して、あくまで理屈で楽しむだけである。

土曜日, 4月 21, 2007

アニメ:おおきく振りかぶって 第2話・・・・・ぉ?

初回の完成度の高さの理由を確認すべく、第2話は最初からじっくり観てみることにした。深夜枠なんてもったいないよなあ。土6の「地球へ」と交代してもいいぐらいだろう。「MAJOR」にも対抗できるんじゃないかな。

さあ第2話だ。刮目して待ってたぞ。

・・・・・・あれれ~?   なんか変、というか、かなり変

・・・・・・まあ多くは言うまい。けどちょっと言いたい
デッサンがおかしいとこあるし、バランスが変だし、レイアウト間違ってるような、それ以前にパースが、いやアングルというか構図か。そもそもカメラの位置を考えてだな・・・・・・

全体のプロットはそんなに変じゃない。

ももちゃんのバイト/合宿開始/三橋アンダーザプレッシャ/阿部・監督プチ対立/阿部・三橋の微妙な関係/阿部の過去ほのめかし
次回、三橋の確執のある古巣との練習試合に続く。いい引きだ。シリーズ構成・脚本はいい感じ。

問題は作画か。


皮肉なことではあるが、今回の仕上がりをみて前回「あの原作をどうやってこんなに自然にアニメ化できたのだろう?」という疑問が少し解けたような気がする。

今回の問題は、原作に忠実たらんとして、絵コンテ段階から原作に引きずられすぎた点ではなかろうか。#コミック戻ってきたら確認してみよう
マンガとアニメは表現手法は全然違う。マンガのコマをカットにしただけではただの紙芝居だ。(そうゆう意図のアニメもあるけど) 

初回の完成度は、原作を完全に咀嚼したうえで、内容をアニメとして表現する最適な手法を的確に選択し、またそれを完璧に実践できた故のものなのだろう。

優れた演出は演出そのものを感じさせないものだ。(観る側が特殊な場合は除く)
初見で演出を感じてしまうようなのは、作為が浮いているか、まあ、狙いで演出自体をウリにする場合だろう。

なんで第2話が残念なことになった理由は推測の域をでないが、まあリソースが限られているということではないのかな、時間的にも人材的にも。
もしかしたら次回の試合のシーンに「動き」が描ける人を集中してるのかもしれないし。
#OPは良い。

第2話から視聴開始して「そんなに騒ぐほどのもんか?」と思った方は、是非第1話を確認して、次回を期待されたい。私は期待して待つ。

#あえてスタッフ比較はしない。

日曜日, 4月 15, 2007

アニメ:「らき☆すた」が賛否両論のようだが・・・・・

金曜日に妙にハルヒ関係のアクセスが増えたので「新刊が出るだけで反応があるのかなぁ」などと思っていたのだが、実は2chの『らき☆すたアンチスレ Part2』に、ハルヒ: 検証 ライブアライブとリンダリンダリンダのURLが貼られていたのが原因だったみたい。スレがdat落ちしたと同時にアクセスなくなったのでほんとに一過性だったけど。

山本監督のパクリ疑惑の文脈で参照されてたのだが、なんにせよ議論の材料として紹介していただけたのは感謝。けど、なんの説明もなくURLだけ貼られているもんだから、結局スレ上は完全にスルーだったのが、ちと残念(^^;
 
たぶんURLを貼った人は「確かに『ライブアライブ』は『リンダリンダリンダ』から構図を拝借しているが、単なるパクリではないよ」という例を示したかったのだろう。まあアンチのスレだから肯定的なコメントをつけにくかったのもしょうがないか。


という訳で「らき☆すた」第1回を観てみた。
せっかくだからOPとさわりに当サイト的にコメントしておこう。

ダンスの動きと音楽については散々語られているので、これは置いといて、注目したいのは美術。ダンス以外のカットの背景は実在のもので、ハルヒの時と同様に、今回は春日部でかなり細かなロケハンをしたもよう。
萌え系4コマが原作なんだから舞台のリアリティは必ずしも必要ないと思うのだけども、やはりそこは京アニ、まずは原作を背景から含めて徹底的にリサーチしたのだろう。

そもそも原作キャラがとっとも漫画的であるため非常に平面的にならざるを得ないのだが、しょっぱなの派手なダンスから、静的な春日部の風景に移行させ、ここにキャラを小さくはめこみ、リアリティのある世界と萌えキャラをうまく溶け込ませている。しかもどっかで見たことあるような仕草まで入れて、視聴者のツボをはずさず、なかなかに手が込んでいる。

本編構成も単調に見えて結構考えられている。
いきなりゆるーい女子高生のだべりには入っていない。まず校庭での情景を、短いながら丁寧に描いて、こなたの走るシーンの漫画的な表現をクッションとして本編の漫画構図のシーケンスにつないでいる。このあたりにも原作をいかにしてアニメの世界に持ってきて表現するかを考えてのことだろう

どうも件のアンチスレでは、本編のゆるさが期待はずれだったようで、「山本監督憎し」となっているみたいなのだが、少なくとも、上記のように、OPから本編までのシーケンスをみるだけでも原作を相当咀嚼して、アニメとしての表現を考えた上での形だと思う。京アニの丁寧さは決してハルヒにひけをとっていないだろう。
だから作品の評価はもう少し展開をみてからでもいいんではないかな、と思うのだが。


あと、カメラワーク的注目点はOPのチアダンスのシーン。

背景の校舎をフォーカスはずした、チア陣形を望遠で捉えた構図。望遠構図は奥行きが圧縮される。これ、平面的なキャラクターを逆手にとったものである。さらに背景の動きで横ドリーを表現するカメラワークによって、キャラのダンスに校庭での空間の広がりを感じさせている。
OPでこのチアダンスのシーンは、曲もサビの一番の盛り上がるシーンであり、サビのシーケンスでのタメから開放に繋がる流れにマッチした絵を、最小限のカメラワークで見事に構成している巧みな演出だと思う

パクリだなんだと言われているようだが、山本監督は自覚的にやっているようだし(参考エントリ)実際、演出の効果は単なるパロディではなく、なかなかに感心するところが多い。
氏の引用のセンスはもっと評価されていいのでは、と思う。

金曜日, 4月 13, 2007

ドラマ:演歌の女王 総括

4月からもう新しいドラマが始まっているのに今更ではあるが、「演歌の女王」が、なぜ、あそこまで迷走してしまったかを勝手に推測して締めくくりとしたい。

一言でいえば「製作陣全体でのビジョンの欠落」が最大原因だったのではないか、と思う。

放映終了後、脚本家や演出家が本来描きたかったものはなんだったのだろうか、と考えてみたがいかんせん手がかりがなさすぎる。話が動き始めそうに見えた5幕あたりから迷走が始まってしまったからなあ。結局数少ない伏線すら全然回収されなかったし・・・・・・・・

もしかして「脚本家も何をやりたいか考えあぐねての見切り発車だった」のか?

そう考えると第1幕以降のもたつき感もしっくりくる。とりあえず、売れない演歌歌手の背景と日常と不幸色々とを配置しておこうか、という程度の作りこみだったのでは、とか。

そのような状況として可能性として考えられるのは、
「表現したいテーマがあって売れない演歌歌手」を設定したのではなく、
「演歌(歌手)をモチーフに何かドラマを仕立てなくてはならなかった」
という類のことではないだろうか。例えば広告代理店の何かのマーケティングの一環で「演歌プッシュ」という流れに巻き込まれてしまったようなものとかね。

傍目には、脚本・演出・役者陣・土9枠、どれをとってもはずしようのない布陣にみえたのだが、やはりドラマや映画は総合力が勝負なのだ。関係者の製作へ向かうベクトルが揃わなければ、全体のパワーも勢いも全然見当はずれになってしまう。

今にして思えば、やたらと「女王の教室」がらみのキャストやネタをからめたりして数字を取ろうとしていたことや、着歌ダウンロード好調などと別方向の材料で盛り上げを煽ったりと、
妙にあざといことをしていたが、視聴率のテコ入れだけではない思惑が働いていたということなのかもしれない。

そうゆう穿った目で総括してしまうと、

中森明菜カバーアルバムで演歌歌う

という記事も、ついつい斜めに見てしまう。演歌ねぇ。これも「演歌」テコ入れの一環なのかなあ。
もしかして森進一の騒動も実は似たような狙いだったりして。

まあ陰謀論的妄想は置いとくとして、やはりドラマでも映画でもアニメでも、スタッフ全体のモチベーションを束ねられる確固たるビジョンがないことには、どうにもならんのだろうなあ、という月並みな結論ということで。

水曜日, 3月 21, 2007

ドラマ:演歌の女王 第8幕~最終幕・・・これはデッドエンドだろう・・・

最終幕、うわべのぬるーい大団円とは裏腹にバッドエンドの印象が強い。
#詳細なあらすじは、どらま・のーと をどうぞ

ヒロシからの電話の後にも「もういいや」と一度死を決意した後の

「いや、まだ私が幸せになっていない!」


という思いからの復活、そして帰還・・・・・・・

これ以降の終盤まで描写は、本当に帰還してからのことなのか?
全て、ひまわりが事切れる間際の夢なのではないのか。

・なぜいつもの病院にいる。雪山そばの最寄の病院の入院が普通では?

・エンディングの着物。なぜ仕立てが済んでいる?
 紅白が決まった時に着てもらうのでなかったのか?

・病院のロビーでの独演会。いいのか?

もちろんこれらはドラマのご都合主義という解釈もあるだろう。ただこれらの不自然な描写はスタッフの意図的なものと感じる。

エンディングまでのシーンそこそこに違和感を散りばめ、最後にぷっつりと「完」。
これは典型的なオープンエンディングではないのか。

そう思ってみると他にも死のイメージが散りばめられているといえなくもない。

・ヒロシとのじゃんけん勝負「おまえが負けたら雪山へ戻れ」
 ・・・・これ、勝てば幸せな夢を見たまま逝き、負けたら現実に戻っての死、とも思える。

・エレベーター前で向かえる知人・家族達
 ・・・・まるで“お迎え”ではないか。

・髪飾りをつけるひまわり。鏡に映る姿は“左前”=“死装束”である。
 ・・・・このカット、後ろに立つ幸子に気がつくためのつなぎなのであるが、鏡には友子を映っていない。あえて鏡に写るバストショットを撮る意図があったようにも感じる。

・消えてゆく幸子。
 ・・・・ひまわりが生まれ変わる故に消えてゆくというハッピィエンドの解釈もあるが、幸子そのものの死であり、幻影としてのひまわりが残っているというようにも思える

いや、まあ、そう思えば思えてしまうだけ、といわれればそうなのだが、そう思えるような作りをしているのは意図的なのではないか。

そもそもしょっぱなから、いつもの分かれ道が“ハッピィエンド”か“デッドエンド”。
#ついでに降り立った駅が「行止」(ほんとは行上)
ハッピィエンドの反対語ってデッドエンドか? アンハッピィエンドって言葉もあるんだけどね。

dead-endは「行き止まり・袋小路」であり、「死んで終わり」という意味はない。
実はゲームでおなじみの“バッドエンド(bad end)”こそ“死による終焉”を指す。

スタッフは最初に言っていた。「ドラマを観た人達に最後に幸せになってもらいたい」、と。

たしかにハッピィエンドの体裁はとっている。
しかし、あまりにも違和感がぬぐえない。
志田先生・温水刑事の身の振り方などとってつけたような説明。もしかしたら本来はもっとメインにからむエピソードがあったかもしれない
そもそも最大のバックボーンであった父親との再会が全てを否定して絶望をもたらすだけのものだったという結末。本当にこれが狙いだったのか。
予定されたエピソードも伏線もまともに回収できない。
ハッピィエンドでもアンハッピィエンドにもできない。

最後まで迷走したスタッフの苦悩を感じずにいられない。


行止り・デッドエンド これがスタッフの選んだラストだったのだろう。

#第8幕・第9幕については完全に書く機会を逸してしまった。
 まずは、ドラマ終了をかみ締めて、次の福田麻由子を心待ちにしよう。
         “セレンディップの奇跡”見逃した・・・ orz

月曜日, 2月 26, 2007

ハルヒ:「ミクルの冒険Episode00」の必然性

演歌の女王のフォローがいっぱいいっぱいでハルヒ関係は月間になってしまってハルヒネタ期待の方には申し訳ありません。けどアクセス解析をみると、ここのところハルヒねたでこられる方で少なからず隅から隅まで読んでいってくださる方が増えているようで、ちょとうれしいです。
2月もなんとかハルヒのエントリということで「ミクルの冒険」(以下「冒険」)についてちょっと語らせていただきます。

放映開始での「冒険」のインパクトはいうまでもありませんが、ちょっと気になってたのがDVD版でも最初にリリースされたことです。しかも番外編という形で。
まあ常識的に考えれば
・インパクトのあるうちにDVDをリリースをして勢いをつけておきたい
・時系列にこだわると第6巻で「冒険」「ライブアライブ」のカップリングとなり、最大の山場である「ライブアライブ」とのギャップが大き過ぎる。
といったことが考えられるので、やっぱり番外編・パイロット編としての位置づけが自然なのだろうなあ、と納得してました。

で、ハルヒのカメラワークをあらためて確認していて、ハルヒ最大のポイント「一人称視点」の演出を深く知る過程で、「冒険」DVDにおいても最初に来るのは必然であるということがわかりました。
一人称視点演出、ハルヒはこれに始まりこれに終わると言い切ってもいいでしょう。これをアニメでどのように表現するかは相当悩んだということはスタッフのインタビューでも語られています。で、実際の演出はどうかは、物語の開始である「憂鬱Ⅰ」(放映2話)でいかんなく疲労されています。本サイトでも、一人称視点が多様なカメラワークでどのように描写されてきているのはいくつか解説してきました。以降の話でも、最終話「サムデイ・イン・ザ・レイン」を除いて、一人称視点の演出は工夫・徹底されています。非常に丁寧な演出によって、視聴者はこの一人称視点の縛りをほとんどかんじなかったのではないでしょうか。

インタビューによると、制作の初期段階で、スタッフは全部カットをキョンの「見た目」視点にすることも考えたが、それだと「ジャンピング」(手塚治虫の実験アニメ)になってしまうのでさすがにやめた、と語られています。

しかし、私が思うにこの全部「見た目」という演出は、実は「冒険」でなされているのではないかと思うのです。SOS団制作のグタグタな自主制作映画をそのまま本編とするという視聴者の度肝を抜いた体裁でついつい忘れがちなんですが、よく考えてみると、この映画は完全なキョンの「見た目」なんですよね。カメラというワンクッションはありますが。
「冒険」は自主制作映画を完全に再現することにより、普段は視聴者に意識させない「カメラ」の存在を強烈にアピールしています。この話の主人公は他でもない「カメラ」なんですね。そしてファインダーを通してこの世界を見つめていたキョンがつっこみをいれています。このエピソードによって視聴者は、「見た目」の視点を完全に刷り込まれ、これ以降のエピソードでの視点のベースを自然にキョンにおくことができるようなっているはずです。
このアニメは「キョンが世界につっこみを入れていくのをキョン視点で追いかける」ということです。
ですからDVD版においても本編の導入部として「冒険」は最初でなくてはならなかったのでしょう。
ここでさらに驚くべきことは「冒険」(メイキングである「溜息」ではなく)が既に原作に最初からあった、ということです。これを採用した京アニも凄いのですが、スタッフ達は採用決定時点で改めて「ハルヒの手のひらの上にいる」ということに思いいたったのではないでしょうか。作品世界にこれを準備していた谷川流より、ここはやはりハルヒ恐るべし、というところでしょう。

日曜日, 2月 25, 2007

ドラマ:演歌の女王 第7幕 ラストまでの方向性は定まったとみた。

第7幕は前回のようなトリッキーなカメラワークは少なかったです。やはり前回が異質だったようです。

これは全くの憶測なんですけど、第6幕で大幅なシナリオ変更があったのではないでしょうか。長回し・アップの多様・隙間からのショットなどトリッキーな撮影は、土壇場での変更に対応するための苦肉の策だったのではないか、という気がします。この仮定から主な変更点がどこかと推理すると、萩本社長のエピソードがその可能性が高いです。
・全くの前フリなしでの離婚危機と事務所崩壊 
・萩本社長がらみでのトリッキーなカメラ演出
  長まわし:ひまわりのアパートでの離婚話、カラオケ教室でのやりとり
  電話越しでの会話の多様、限定アングルからのカット多様
  飛び降りを決心した屋上でのカットのアオリアングル
     ⇒空だけ写せばどこで撮ってもいいので辻褄あわせに使われることが多い。
・分かれ道のシーンにCG無し(第7幕で復活)つまり分かれ道の設定自体も変更あり?

以下、勝手な推測:
ヒロシの母を演歌で正気に戻すくだりの伏線回収があまりにも急だったのは、このヒロシの母のエピソード展開を軸に再構成した。
ヒロシの母については第7幕で真佐美との関係も含めて整理されているので、その後の地方営業への展開につなげるために萩本のエピソードを急遽準備したのであろう。
ならば第6幕で本来入るはずのエピソードは? これは、ひまわりの母と弟の話でしょう。この話はあまりにも急にまとめすぎです。だいたい傷害事件まで発展させておいて血を分け合ってめでたしめでたしって、いくらなんでも脚本が破綻してますがな。お陰で温水さんがまともにからんでこなかってでないの。最後の看板いたずらのとこだけ。あれだって、ひまわりの行動パターンからは逸脱してます。本当ならば第5幕・第6幕ぐらいにわたって親子関係の修復をじっくりとまとめ、最終回での父親との再会へつなげるつもりだったのではないかと。
方針変更はわりと明確で、

・1回ごとに話を回収する。単発で観てもそこそこ楽しめるように。
・エピソードの密度を上げてテンポを良くして視聴者をあきさせない。
・悪役のキャラをはっきりさせ、それを改心させるなどしてカタルシスを得られるように
・ある程度ヒロシへ駄目出しをして視聴者のフラストレーションを解消してあげる。
・特に天海キャラの強さをはっきりとする方向へ。

てなとこでしょうか。
酒井若菜のブログによると、第7幕の撮影終了は2/18だったようです。これ第6幕放映終了の翌日ですよ。編集作業その他を考えるとこの時期にしては結構押しているのでは。いわるゆ「撮って出し」ってやつ?
#まあ、TRICKでは次回予告が「まだ出来てなーい♪」ってこともあったけどね。

んー、本当のところはどうだったのかなあ。放映終了後に関係者から現場の情報があがらないなあ。

色々な意味で残り3回の展開を楽しみにしましょう。
#福田麻由子の扱いももうちょっと考えておくれ・・・・・・・・・
 天海とのセーラー服対決は、ちょっと笑ってしまったが、もうちょっと台詞回しをひねってほしかったな。

水曜日, 2月 21, 2007

ドラマ:演歌の女王 第6幕 色々な意味で面白かった。ほんとに

正直、面白かった。最初からこのような構成・演出にしていたら15%以上の数字は確保されていただろう。ビデオ(もしくはハードディスク)に撮りだめしたままのあなた。騙されたと思って、第6幕(2/17)を観て欲しい。放送当初と似たような構造なのに、ここまで印象が変わるのか、と驚くであろう。

時間がないのでざっと印象を。

個人的に特にびっくりしたのはカメラワークである。
序盤のひまわりのアパートのシーンから、広角レンズの長回し。しかもかなりのハイテンポ・ハイテンションである。次のカラオケ教室での天海・段田の長回しでのやりとり。さすがである。役者の力量がいいテンポを生み出して、ここでのテンポのよさが終盤まで続く。

中盤以降もかなり大胆な構図、カット割りが続く。正面バストショット想定線上でのカット割り。俯瞰・あおり、はては実相時カットまで。好き放題と言ってもいいほど。けど、これらの演出全般が妙に今回のテンポにははまっていた。
カメラワークが気になる自分にとって、とぉっても満足でした。はい。


ただ・・・・・・

これがスタッフ達が目指した形のコメディだったのか、という点では疑問が残る。あまりにも伏線みえみえかつ予定調和な物語の回収(痴呆症の田丸母を演歌で正気に戻させる、など)。1話内で視聴者を満足させるべくのプロットの変更があったのではないか、という疑念がぬぐえない。今回の演出パターンの大幅な変更は、「単純に視聴者を楽しませるだけならいつでもできるんだよ」みたいな開き直りなのだろうか。

今回の長回しの多用も、もしかしたらシナリオ変更の影響なのかもしれない(だとしても結果オーライだが)あとTV局内でシーン、照明ミスのハレーションなど普通ならNGであろうと思われる絵が多々あったし。

低視聴率による打ち切り観測記事がうるさいようで、内部でもスポンサー向けに色々と大変なのであろう。テコ入れも随分強化されている(ハケンの品格との抱き合わせのSP、MusicLovers平井堅・天海競演、ズムサタのバックアップなどなど)

残りの展開を察するに、どうやら私が当初想定したような、「コメディの皮をかぶった社会派メッセージドラマ」の可能性は少なそうだ。ただ、まだまだ色々とやってくれそうな気配は濃厚である。折り返しを過ぎて、あと4回。どのように転んでも見物である。
どうか打ち切りになりませんように。

Wikipediaに7幕が最終幕となっていたけど、さすがにこれは飛ばしだろう。
 ・・・・・って見直してみたら修正されてた。魚拓とっとくんだった。

他のブログでの第6幕レビュー
どらま・のーと 演歌の女王 第六幕『初の生熱唱が奇跡を起こした!!』
救え! 演歌の女王!!(Muhoの日記)

月曜日, 2月 12, 2007

ドラマ:演歌の女王(第五幕) なんだか普通になってきちゃったなあ

前回(第四幕)から、これまでの配役が絡み合い始めてきて物語が動き始めてきた、と思ったのですが、
第五幕を観て、もしかしたら一般にわかり易い展開になるようにシナリオに手が入れられてしまったのでないか、という気がしてきました。

その一番の理由は、今回のトラブル「母と(腹違いの)弟との家族の絆の崩壊」が、あっさりと(まあ、命がけですけど)回収されてしまっているからです。この設定、こんなに簡単にまとめちゃっていいんですかね。父親との再会まで繋がる話の流れでそれなりに重要な部分だと思うんですが。どうも一話ごとにきれいにまとめて視聴者に安心感やそれなりのカタルシスを与えるようにしてしまったような気がします。

あとラストで次回のトラブルが出てきてない。しいて言えば痴呆症の秘密を打ち明けてしまうところが引きといえばそうなのですが、これもいつものパターンと違う。次回予告で池内淳子の痴呆症の話ということがわかるんですが、ならばもっと強烈な引きにしてもいいと思うんですが、やはり話ごとに綺麗にまとめようとしてるんでしょうか。

全10回ですから折り返しなので、話を回収する方向に持っていっているのかもしれませんが、いかんせん、低視聴率だの打ち切りだのと外野がうるさいようで、観る側も「テコ入れかなあ」などと感じてしまうのもちょっとなんですね。
なんだかんだ言っても、このドラマのメッセージ性にはかなり共感かつ期待しているので、今後も軌道修正されていないことを願っています。

#もう、どうころんでも最後まで付き合うもんね。

#その他いろいろ
・今回も「女王の教室」から出てましたね。真鍋 由介(松川尚瑠輝)。璃子ちゃんを袖にするとはもったいない。
・ホストクラブでのBGM Word Up / Cameo なつかしい。おばさま向けなのね。
・今週の貞子。スクラップ芸人になってまんがな。あと、なぜウルトラQ (^_^;)
・エンドロールに「赤いプルトニウム」・・・・・また微妙なところを。

木曜日, 2月 08, 2007

ドラマ:演歌の女王(第4幕) なんか噛み合ってきたぞ

演歌の女王 第4幕。 

ん? なんかテンポよくなってきたような気がしました。
パターンが固まってきたので観ているこちら側が慣れてきたのか、それとも意地でも楽しんでやろうとして観てる気合の賜物か。

特に、毎回繰り替えされるこのドラマでのメインメッセージ「ひとりぼっちはさみしいんだよ」が、どうにも心に響かないなあ、とおもってたんですが、
今回ようやく、真佐美(酒井若菜)へのこのセリフで、メッセージがストンと腑に落ちました。

2幕・3幕での児童虐待といじめにおいては、いずれも加害者と被害者という構図で生じているものです。普通は加害者の非を責め被害者をいたわるという流れですよね。ところがこのどらまでは、ひまわりは加害者に対して啖呵を切ることはするが、あくまで妄想の中だけであり、お茶を濁すのが精一杯。そして被害者へは「ひとりぼっちはさびしいよ」という、励ましとも慰めともつかない、一向に解決にならない言葉をかける程度。こんなメッセージで何を訴えようといういうのだろう、かと訝っておりました。
で、第4幕。執拗ないやがらせをする真佐美(酒井若菜)は、自分さえ幸せであればいいと考える故の加害者ではあるのですが、そうなってしまった原因は社会の理不尽さにもあるため、ある意味被害者でもあります。ですから今回の「ひとりぼっちは…」のセリフは、「本当にそんな生き方でいいのか、本当にそれで幸せといえるのか」というストレートな問いかけになっています。
そう考えてみると、施設へ行くという信くんへの問いかけや、学校から逃げようとする貞子へのセリフは「今の境遇から逃げるために一人になってもいいのか?、誰かと共に生きて幸せをわかちあえなくてもいいのか」という問いかけになっていたといえます。

「女王の教室」では超絶的な意志を持つ阿久津先生が示す行動とメッセージによってクラスと教師・親達が変わっていく様が描かれていました。ドラマのご都合主義で終わらせず、視聴者にまでも問題意識をいだかせる見事な構成でした。

今回のスタッフはさらに野心的なことを構想したのでしょう。
カリスマに頼らず、誰にでも、日本一不幸な演歌歌手にだって、言える一言

「ひとりぼっちはさびしいよね。」

このワンフレーズで世の中を明るく変えていこうとしているのではないでしょうか。

『たとえ不幸でも、今の境遇から逃げないでこの世界を生きていこう。一緒ならなんとかなるよね。誰だって誰かを少しぐらいは支えていけるでしょう』そんなメッセージを感じます。
「がんばれ」じゃなくて「わたしは一緒にいるよ」という一歩踏み出した応援、というか
かなり控えめな「ペイ・イット・フォワード」みたいな。

天海をはじめとした従来と正反対のキャラ設定も、毎回のトラブルを単純な勧善懲悪で収拾せずにプロットを展開させていくのも、視聴者に対して単純な感情移入や予定調和をさせないための仕掛けなのではないか、などと考えてしまいました。

次回は、ホスト遊びに明け暮れる母親の話。やはり「ひとりぼっちはさみしいよ」となるのでしょうか。どのような展開なのか楽しみです。

ところで視聴率は・・・・・・・・・・・・・9.9%(前回8.5)
んー、微妙。特番編成が一段落してきたから潜在的な視聴者が生視聴に戻ってくるころなんでしょうか。今回は多少は視聴者をひっぱってくれていそうなので、次回2桁に戻して、打ち切り不安を回避してくれることを祈ります。

その他雑感
・温水さんと志田さんは、不祥事担当じゃなくてパターン踏襲を担ってるんですね。
・ひまわりがため息をつくと福田麻由子の出番。同居人が出来て部屋での出番が減るかと心配したんですが、どこでも出てこれるようです。よかったよかった。
・不死身のひまわり。この展開はもしかしたら・・・・・ままゆが・・・・・夢オチ
  てなことはないだろうなあ。
・妄想シーンとの切り替えは照明の色温度の違いが目安かな。
・演歌熱唱の導入カットでのカメラがぐるぐるする(360°ドリーとかスピンアラウンド というらしい)パターンがなくなった。歌唱シーン自体も短くなってる。このほうが流れはいいと思う。

水曜日, 1月 31, 2007

ドラマ:それでもまだ演歌の女王を楽しむために

第3幕 8.5%・・・・・・・・・・
みんな、
ついてこ~い!
 (by 佐久間一行

まあ、なんとかまだ踏みとどまったかな、という感じです。
が、この先も厳しそうです。ドラマ関係のブログをちらほらと見てみたんですが、ぼちぼち離脱というところもありました。

実際、素直に楽しめる要素が少なすぎ。感情移入できそうなキャラはいないし、ギャグも微妙にずれてるし、爽快感もさほどない。児童虐待・いじめ問題、どっちについても何の解決もメッセージもない。あるのは「ひとりぼっちはさびしいんだよ」という切なる訴えだけ。
脚本の人は「ひまわりが不幸を呼び込んで周りの人が幸せになるという話」って、ほんとかぁ?

けどね、私は付き合いますよ。「演歌の女王」という作品、今回はスタッフが相当ひねって来たチャレンジングな作品なのか、ひねりすぎて明後日の方向に行ってしまっただけなのか、じっくりと見極めさせてもらいます。

そうゆう訳で、まだまだ「演歌の女王」を楽しむための心構えを並べてみました。

1.いつもと違うキャラを楽しむ

 天海祐希   自立した颯爽なキャラ ⇒ 状況に流され不幸を呼び込むダメンズ
 福田麻由子  シリアス・綾波系   ⇒ シニカル・コミカル・おませ 
 原田泰三   熱血系        ⇒ 生きててごめんね・ホリケン系
 成海璃子   可愛         ⇒ いじめられっこ・貞子
 酒井若菜   天然・ぶりっ子    ⇒ ヤンキー
  
 どれをとっても役者さんの持ち味や期待されるイメージからあえてはずしてるように思えませんか?まあ、酒井若菜はどんな役でもこなしてしまうのですが、やっぱりその変わり身の見事さは見所ですね。これらのキャラ設定は伏線なのか終盤での展開があるのか、期待しましょう。
そういえば温水さんはそのまんまだから、これはこれでなんかあるかな。

2.伏線を探す
 第3幕の前にやってた特番で、賞状やトロフィーに記されていた「島津」「信友」の姓について「今後のストーリー展開に関係してくるので覚えておいてね」と、わざわざ念を押していました。ごく普通の室内描写だったので覚えてない人結構いるんじゃないかな。しかも第3幕の最後で家財道具がすっからかんになってしまったので今後は写らんだろうし、伏線としては難しいのでは。質流れか何かになって誰かに渡る、という展開かもしれません。
 また、第1幕、2幕で繰り返された、ひまわりのじゃんけんの弱さが貞子の説得に使われたり、信君が熱心に遊んでいたゲーム機を壊すので貞子の運の悪さを示したり、と、実は細々と後につながる描写をはさんでいるようです。ですから弁当屋の店長のiPodを揚げてしまったのも、信君が熱心に英語の勉強をしているのも、選挙のポスターも何かの伏線かもしれません。
赤い反物はまだ残っているのでこれもひっぱるのでしょう。ほんとに紅白に出るとか。
 
3.女王の教室つながり探し
 スタッフ・主要キャスティングだけでなく、6年3組のメンバーもさりげなくゲスト出演してるんですね。 どらま・のーとに詳細がチェックされています。女王の教室との対応は、女王の教室公式サイトの6年3組のページを参照のこと。
#みんな大きくなったなあ・・・・
追記: こちらのサイトもキャストの詳細なチェックがありました。
シャブリの気になったもの:演歌の女王 第三話

4.ツッコミ
元マネージャの萩本(段田安則)の薀蓄、ベタですよねぇ。え?毎回しょーもないですと?勘違いしてはいけません。ここはギャクではありませんよ。ボケたらツッコむ。最低限の礼儀ですね。ですからこうゆう時はテレビに向かってひまわりと一緒に突っ込みを入れてあげる、これぞ大人のコミュニケーションです。

「かきけけこ、ですけど」
「いつもこんなの持ち歩いているですか」

親切かつマイルドな突っ込みです。
次あたりからはノリツッコミを期待しましょう。


えー、当サイトは「演歌の女王」を応援しています。
・・・・・・ほんとだってば

土曜日, 1月 27, 2007

ハルヒ:見た目のカメラワーク(3) フォーカス

DVDは7巻までリリースされましたが、こちらは今だに「憂鬱Ⅰ」(放送第2話)の演出分析だったりして。
(その2から予告しておきながら1月たってしまった・・・・・・)

さて見た目のカメラワークその(3)「フォーカス」です。
以下は席変えの前、キョンとハルヒの会話が成立した後の1シーンです。

休み時間になり席を立つハルヒ
それに気がつき、どこへ行くのかな、と振り返るキョン
ここからキョンの「見た目」カットになります。
前のカットでキョンが振り返ったところから自然につなげられています。
キョンは教室を出るハルヒを眺めています。
ハルヒが見えなくなったと同時に視界に割り込んでくる谷口

ここのフォーカスに注目してください。谷口ぼやけてますね。
ようやく谷口に焦点があいました。
同時に奥の生徒への焦点がはずれており、谷口へのフォーカスがより明確になっています。

最後のみっつの絵はキョンの「見た目」のカットですが視線は移動することなく固定された構図となっています。
もし、キョンがハルヒの行く先をとても気にしているのならば、ハルヒにフォローする形でズームやパンによって目で追っていることを強調したでしょうが、ここでは構図が固定されています。ということは、ここはまだ、キョンはただなんとなく「どこに行くのかなぁ」程度の注目しているんだよ、という印象を与える演出です。

しかし、ここで谷口の割り込ませて、視点フォーカスをハルヒ⇒谷口へとワンテンポ遅れて切り替えるという効果を加えることにより、その印象は塗り替えられます。谷口の割り込みにちょっとびっくりさせられたという感じが明確になるとともに、たぶんキョン自身も意識していなかったハルヒへ注視が表面化します。視聴者がキョンと視界を共有することにより、ハルヒへの視線の感覚をも自然に感じさせることに成功していると思います。

ちなみに、
固定構図におけるフォーカスの変更は、構図に奥行きのある場合、例えば役者2人が手前と奥にいるような場合に注目すべき対象を切り替える、というのが典型的な使われ方です。廊下のような狭い空間で向かいあっての会話だったりすると横からの構図は取りにくいですよね。そこでフォーカスを使ってカット割やズームを用いずに視線を誘導するわけです。

#無理にカットを割ると向きが正反対の構図に切り替わるので画面がばたばたしてしまいがち。(いわゆるイマジナリーラインへの抵触) ドラマ観てると結構そんなんがあったりします。

画像出展:DVD 涼宮ハルヒの憂鬱1より

水曜日, 12月 13, 2006

ハルヒ:2話 見た目のカメラワーク(2) 望遠

ハルヒメインのサイトのはずなのに11月のハルヒ関係、ひとつしかなかった・・・

そうゆうわけで、ひっぱったままだった「見た目」その(2)です。

谷口がハルヒの中学時代の奇行を語るシーンの一連の流れで、キョンは谷口の会話を聞きつつハルヒを遠くから眺めています。
 校舎横の階段踊り場から屋上のハルヒに気がつくキョン


このカットがキョン視点“見た目”となっています。



同様に教室から


プール脇で何ごとか思案しているハルヒをみています。

これらのハルヒのカットには共通点がありまして、超望遠で撮ったような感じで画面が揺れているんですね。(うまくGIFアニメにできなかったので確認したいかたは動画を参照ください。5分過ぎあたりからです。)もちろんキョンが双眼鏡で彼女達を見ているわけではなく、遠くのハルヒ(に注意がいっている、という表現な訳です。
この望遠カットの前後にはキョンのナレーションや視線移動の描写があるので、特別な演出がなくともハルヒのカットがキョンの“見た目”であることはわかります。ここであえて望遠の揺れを加えることによって、「遠くのハルヒを」「キョンから一方的に」見ているというキョンの心情が自然に感じられると思います。
実際の視覚では、このような望遠の揺れは起こらないのですが、TVや映画などで「超望遠」の画像というものを自然に感じられるようになっているからこそ、このような演出が効果を発揮できると言えるでしょう。

実はこの後に続く体育の授業中のシーンでも揺れる望遠のカットがあります。谷口がベスト3とする朝倉さんを挙げた時もキョン見た目です。


このカット、ハルヒに比べて明らかにアップになってますよね。つまり、ハルヒについては「なにやってんだ」という行動に注目しており、朝倉さんについては主にルックスに注意がいっているということがわかります。
#ちなみに、この次のカットでキョンは朝倉さんを上から下まで嘗め回すような見ているんですね。うむ、気持ちは良くわかるぞ。

このようにカットひとつひとつの演出が実に丁寧なもんですから、見直すほどに発見があります。
「見た目のカメラワーク その(3)フォーカス」に続きます。

土曜日, 11月 18, 2006

CM:ソフトバンク キャメロン・ディアス(私ならこう演出する)

先日の怒りが届いたのかソフトバンクのキャメロンディアスのCMが元に戻ってました。#公取の指導だってば
まあとにかく、あの醜悪な「¥0」がなくなっていて、めでたいめでたい。

なんだか、ここ2・3日で“ソフトバンク キャメロンディアス CM”で検索があったんですが、このためだったんですかね。たぶん15日ぐらいから元に戻ってたんでしょう。

あらためてこのCM(ストリートを歩くほうは“街角編”というらしい)について世間の評判を確認してみたら、意外にも
「ディアスのインパクトはあるが、何を言いたいCMだかわからん」
というのがちらほらと。
企業CMなんだから、まずはインパクトで充分なんじゃないかなあ。否定的な評価の人でもディアスを見た時に「おっ!?」と思ってたんだから、これはSoftBankの狙い通りでしょう。

ただ、次の“スーパーマーケット編”は、私も失敗だと思います。だってシチュエーションを代えただけで“街角編”と何にも変わっていないんですもん。これもディアスの存在感にのっかるだけじゃあまりに芸がなさすぎです。

“街角編”でツカミはOKだったからこそ、それに重ねてスーパー編で企業CMとしてもメッセージを出して、「なるほど、ここで企業としての方向性が示されるのか」となればよかったのに。
おそらく、製作側の意図としては、ビジネスシーン・カジュアルシーン・○○○シーンでかかせないSoftBank携帯、みたいなものだったのでしょう。しかし2作目では、もうディアス起用のインパクトがないですから、今のような内容では、1作目との対としての作品という印象しか残りません。もったいない。

ここはディアスにもっとハジけた演技をあてて「今度はディアスにここまでやらせたか!」というぐらいまで、このスーパーマーケット編自体のインパクトを強烈にしなくてはならなかったと思います。当然SoftBankの企業CMとしてのメッセージを含んでです。
ディアスは「クリスティーナの好きなコト(The Sweetest Thing)」で「メリーに首ったけ」とは比べ物にならないほどハジけてましたからねえ、それこそ予想外の演技してくれたんではないかと思うんですが。

私ならこうする
・ディアスにコギャル風(ゴスロリでもコスプレでも可)の装いをさせ、アキバや原宿あたりではしゃがせる。ある意味現代の日本の文化的アイコンである分野への進出・存在感を演出
・一転、下町の八百屋ですごく自然にとけこんでいるディアス

企業メッセージ  日本の文化に自然に溶け込む携帯インフラを実現する、という暗喩

 ⇒これはJ-PhoneがVodafoneになり日本市場にマッチしない製品展開や運営方針を繰り返したことを反省・やり直す意図として、ディアス(外国人)を日本文化に溶け込ませる、という構成にする。
街角編:ディアス起用のインパクトで充分。ここはまだ颯爽としたビジネスパーソンというイメージでOK
アキバ編:ディアスはじけてるよ!! 前作はニューヨーカーっぽかったのに今度はオタ外人
下町編:あれ今度は落ち着いたなあ。

てな感じ。 
#メイド服は似合いそうにないから、アクション系のコスプレがいいかな。あ、それだとチャーリーズエンジェルになってしまうか。

続き:その3その4

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木曜日, 11月 16, 2006

ハルヒ:2話 見た目でのカメラワーク(1)

“ハルヒ”はアニメ化に際して原作の一人称視点の原則を忠実になぞっています。ただし、一口に一人称視点といっても実際に映像化するには色々な方法があるので、どのような構図・カメラワークを採用するかが演出の腕のみせどころです。
#インタビュー記事によると、山本氏・石原監督ともども、相当検討を重ねたようです。

もっとも主観的な一人称視点はキョンが見ている映像で、いわゆる“見た目”というやつです。
“キョン視点”という表現ですと、「一人称視点」なのかそれtも「見た目構図」なのか区別がつきにくいので、一応表現を“見た目”で統一します。

2話(憂鬱I)は物語の導入部であり、視聴者に世界観をしっかり理解してもらうために、日常および背景をきっちり説明し、またキョンとハルヒの出会いから接近の変化を描かねばなりません。
この一連の流れのなかで、キョンの“見た目”構図とカメラワークの組み合わせが効果的に使われており、キョンの心情やハルヒとの距離感がうまく表現されています。

以下は「普通の人間には興味ありません」宣言の次の朝、キョンがハルヒの前に腰をかけるまでです。
 
 

・ハルヒは先に席に座っている

・横目で様子を伺うキョン

 #画像が多くなるので割愛しましたが、ここでのキョンの目線の動きも細かくて、気にしてないふりをしつつ目線を向けるという描写がされています。



ここまでは通常の描写です。




この次のカットがキョンの“見た目”です。(GIFアニメにしてみました。動かない場合はクリックしてみてください)
ちょっとわかり難いかもしれませんが、広角で周辺部に歪みが出ている絵であり、ハルヒが視界の隅に動くにつれて歪みが強調されています。
これは
「キョンがハルヒに顔を向けずに横を通り過ぎつつ視界の隅っこでハルヒの顔を見ている」
という状況を、キョンの見た目構図にして、それを広角レンズでの歪みという絵にすることによって、視界の隅で見ている、という表現を実現しているわけです。現実の“見た目”の絵はこうは歪まないと思いますが、一連の流れで自然に「ああ、横目でみてるんだな」と理解できてしまいます。

この次のカットでキョンは思い切って「なあ昨日のあれ・・・」とハルヒに向かって話しかけることになるのですが、上記のつなぎカットは、そこまでのキョンの様子見の心情をさりげなく表現している巧みな演出だと思います。

#その(2)に続く予定・・・・・・・・・

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日曜日, 10月 15, 2006

不描之描弐(宮崎駿の場合)

不描之描の続き
 
宮崎駿が作画についてこんなことを言ってました。(出展失念)
「原画、つまりカットの最初と最後を決めのポーズや構図にしてはいけない。本当の動きは常に不安定なもの。ここがイラストとアニメの大きな違い。」

 確かにカットの始まりや終わりが構図として安定していると、そこで動きが止まってしまうんですね。宮崎アニメでは、この中途の動きの表現と、途中でのカット切り替えが絶妙で、動作が自然につながっています。加えて視点のつなぎと切り替えが丁寧で、どんな複雑なアクションシーンでも見る側が迷うことはなく、アクションそのものの妙をストレートに感じることができるように作りこまれています。表面に出てこない演出の技ですね。


岡田斗司夫がアニメ夜話(カリオストロの城だったかな)で言ってた宮崎演出の話。
 あるスタッフが、格闘シーンで短剣をスッと突き出す動作がうまく描けないでいた。それに対しての宮崎駿の指導。「短剣を突き出す習慣に、一瞬の刀の光の反射だけコマを挿入すればいい。」・・・・・すごいの一言。ほんとに「どう動かすか」を超越した表現力です。
 この逸話を紹介した岡田が付け加えるに「こんな化け物が親分だなんてやってられないよね。いつになっても凌駕できる気がしない。」 
 まったくです。


上で言及されている短剣のシーンは、ナウシカか、もののけ姫の格闘シーンだと思います。
ナウシカの他の場面でも、反射光の一瞬のきらめきを効果的に使っているところがあります。
室内の会話シーンで、テト(キツネリスだったかな?)がナウシカの肩の上をちょこちょこと動き回っているところです。ここでテトがナウシカのイヤリングを揺らし、その一瞬のイヤリングから反射光がきらめきます。
この描写の挿入は絶妙で、イヤリングが揺れた感じが自然かつリアルに感じられ、テトの動きやナウシカが仕草に俄然リアリティが生じているのです。
個人的には“うなじ”への視線誘導が「やられた」と感じました。

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木曜日, 10月 12, 2006

ハルヒ:不描之描(例えばEDダンスの場合)

人は文章や映画などを見るとき、書/描かれていることだけでなく、むしろ書/描かれていないものを積極的に認識し補完しようとします。


これ、エンディングダンスシーンの「Boooon」の動作のひとコマですが、どのタイミングのところかわかりますか?

大抵の人は最後のちょっと前あたり、Boooonの“n”の直前あたりという印象を持つのではないでしょうか。

実はこれ、このカットのラストの絵なんです。
ダンスシーンでは、伸び上がる動作がもっと上までいって形としてフィニッシュまでいってたように記憶してませんか?
ところが絵を見る限りでは、足の感じはちょっと不安定だし、手も上まであがりきってないし、視線移動もまだ途中で、明らかに動作はフィニッシュしていないように見えます。

エンディングのカット割では、曲のリズムの区切りの直前でこのカットをおわらせ止絵につなげています。この微妙なタイミングと動作の不足によって、見ている側はポーズのフィニッシュを脳内で補完させています。なまじ元の動きがいいために途中で動きが切られても感覚が補なうため、受け手が望むもっとも可愛いカットによるフィニッシュとなっているはずです。

ダンスの前半部分は、このような細かいカット割りと止絵を組み合わせて、密度の高い動きを視聴者に印象づけ、かつ、「ダンスをまとめて観させてくれ!」という飢餓感をあおっています。「地球の果~てまで♪」「あっそっぼぉ♪」のダンスの部分も単に細切れにしているわけではなく、フルショット、アップ、俯瞰+広角、といった種々の構図をとりまぜて、見る側の補完機能をフルに稼動させています。
そして終盤は5人のダンスを完璧に見せてくれて、ああ、いいもん見せてもらったご馳走様、となります。実に視聴者の心理を煽るうまい構成でしょう。

いわゆるハルヒダンスの影響力のすごさは数々のダンス映像からもわかるわけですが、これもこの構成の妙によるところが大きいと思います。


で、いよいよダンスの完全版がアナウンスされたわけですが、

『涼宮ハルヒの憂鬱』エンディング「ハレ晴レユカイ」完全版、DVD最終巻映像特典として収録決定
DVD最終巻「涼宮ハルヒの憂鬱 7」の映像特典について

これ、公開された絵コンテのままだと単に振り付けをなぞっただけで、振り付けの参考にこそなれ元のエンディングのようなインパクトはないと思うんですよね。2~3回みればもういいかな、ってなってしまうのでは。ただでさえ、自主的な振り付け動画が先行しているのですから、京アニの維持にかけてファンの期待を上回る映像を作って欲しいです。

ここは是非ともDVDのマルチアングル機能を使って、
・ライブアライブばりのカメラワーク版、と
・正面固定カメラ+アップ少々
という構成にしてくれないかな。

#あと、本家、絵コンテシンクロバージョンも是非

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