月曜日, 10月 30, 2006

CM:ソフトバンク キャメロン・ディアス編

ソフトバンク携帯の企業広告(キャメロン・ディアス編:携帯で話ながら歩く姿を正面から撮ったもの)、このCMを初めて見た瞬間、正直

「おっ!キャメロン・ディアスだあ。なんのCMだ?」

と、画面に引き込また。
ハリウッド大物俳優(女優)を使ったCMはそれほど珍しくない昨今だが、久々に女優の存在感をストレートに前面に出したもので、なかなかいい、やっぱオーラが違うのかな、「予想GUY」なんかより、シンプルにインパクトあるよね、そう思ってた。

・・・・・・・・
・・・・・
・・・

それがなんだ「¥0」って、キャメロンの脇にチラチラしてるあれは。
台無しだ。
まるで新聞折込チラシだ。
携帯¥0(新規契約のみ)ってのと変わらない。


CFの絵を撮った監督とカメラとその他大勢のスタッフは泣いているぞ(たぶん)

旧バージョンが好印象だっただけに、その醜悪さは倍掛け以上だ。


・・・マジに乗り換えたくなってきた。
・・・・CMがここまでの(逆の)モチベーションを起こすこともある、っつーことだな。

(2006.11.17 追記 今日見た“エアロスミス”バージョンは元に戻って「¥0」チラチラがなくなっていた。公取の指導の影響かな。よかったよかった)
   続き:その2その3その4

←  不描之描弐(宮崎駿の場合)Home |

日曜日, 10月 15, 2006

不描之描弐(宮崎駿の場合)

不描之描の続き
 
宮崎駿が作画についてこんなことを言ってました。(出展失念)
「原画、つまりカットの最初と最後を決めのポーズや構図にしてはいけない。本当の動きは常に不安定なもの。ここがイラストとアニメの大きな違い。」

 確かにカットの始まりや終わりが構図として安定していると、そこで動きが止まってしまうんですね。宮崎アニメでは、この中途の動きの表現と、途中でのカット切り替えが絶妙で、動作が自然につながっています。加えて視点のつなぎと切り替えが丁寧で、どんな複雑なアクションシーンでも見る側が迷うことはなく、アクションそのものの妙をストレートに感じることができるように作りこまれています。表面に出てこない演出の技ですね。


岡田斗司夫がアニメ夜話(カリオストロの城だったかな)で言ってた宮崎演出の話。
 あるスタッフが、格闘シーンで短剣をスッと突き出す動作がうまく描けないでいた。それに対しての宮崎駿の指導。「短剣を突き出す習慣に、一瞬の刀の光の反射だけコマを挿入すればいい。」・・・・・すごいの一言。ほんとに「どう動かすか」を超越した表現力です。
 この逸話を紹介した岡田が付け加えるに「こんな化け物が親分だなんてやってられないよね。いつになっても凌駕できる気がしない。」 
 まったくです。


上で言及されている短剣のシーンは、ナウシカか、もののけ姫の格闘シーンだと思います。
ナウシカの他の場面でも、反射光の一瞬のきらめきを効果的に使っているところがあります。
室内の会話シーンで、テト(キツネリスだったかな?)がナウシカの肩の上をちょこちょこと動き回っているところです。ここでテトがナウシカのイヤリングを揺らし、その一瞬のイヤリングから反射光がきらめきます。
この描写の挿入は絶妙で、イヤリングが揺れた感じが自然かつリアルに感じられ、テトの動きやナウシカが仕草に俄然リアリティが生じているのです。
個人的には“うなじ”への視線誘導が「やられた」と感じました。

←  ハルヒ:プロアマプロ・・・・・・Home |

ハルヒ:プロアマプロ・・・・・・

レスリングといえば普通はアマチュアレスリングのことですね。最近は吉田101連勝とか女子のほうが話題。
これに対してプロレス。これはプロのレスリングでは全然ないことは皆さんご承知のとおり。遺恨がどうのアングルだセメントだと格闘技とは別の楽しみ方があるらしい。よく知らんけど。

で、アマプロレス。大学などのプロレス同好会などがそう。プロレスの技とエンタテイメントの妙を模倣したもので学園祭などではそれなりの人気そうな。

でもってこれが商業化したものとして、プロアマプロレスというものがあったりします。長州小力やアントニオ小猪木の興行なんかがそうで、これは芸人の余興から発展したものらしい。HGやインリン、挙句の果てには和泉元彌までの芸人レスラーを揃えているハッスルなどもこの範疇ですね。

この変遷(というか発展)の本質はアマ/プロということではなく、マスメディアのあっちとこっちの往来によるカテゴリーの変質にあります。ようするにドラマでもショーでも格闘技でも、コンテンツの送り手の意図と受け手の楽しみ方はちょっとづつずれてるものであって、それがフィードバックされて新たな分野が生み出されるていくことは多々あるな、ということです。

随分長くなってしまいましたが以上前フリ

複数のグループが実写で「朝比奈ミクルの冒険」を撮影している(後天性無気力症候群)
あれを再現しようという人が出てくることは想像もしてなかったです。いやあ頼もしい。

「朝比奈ミクルの冒険」は、いわゆる戦隊物の自主制作の劇中劇でありますが、単なる自主制作というだけでなく、

ヒーロー戦隊もの

戦隊物パロディの自主制作:愛国戦隊大日本

それへのオマージュ自主制作:怨念戦隊ルサンチマン (山本寛監督)
(色々な分野のネタとりこみ)

「朝比奈ミクルの冒険」

という流れがあるわけで、これの先に

自主制作実写再現版:「朝比奈ミクルの冒険」

となってるところなどは、まさにプロアマプロ・・もしくはメディアのあっちとこっちの往来によるコンテンツの発展そのものです。
「大日本」や「ルサンチマン」はマニアの間ではそこそこ知られていましたが実際に見たことある人は限られていました。しかし今はYouTubeがあります。あっちとこっちを隔てるメディアの間口は巨大になりました。両側からのフィードバックは桁外れに強化されています。これはハルヒダンスの派生映像や各種MAD映像でも明らかです。

これらのムーブメントは必ず向こう側にフィードバックして新たなコンテンツカテゴリーを生むでしょう。楽しみです。
#もっともこれからの「あっち側」は、もう旧来の送り手であるTV等メディアとは限りませんが。

それはさておき、実写版のどんな出来なんですかねぇ。技術を駆使して徹底的に再構築された低クオリティを実写でどこまで再現できてるか非常に興味あります。単なる低クオリティではなく、その再現ですから、これはこれで相当な手間がかかるはずです。
出来はどうあれ広く公開して欲しいですね。そして次の作り手を大いに刺激してほしいものです。

←  ハルヒ:不描之描(例えばEDダンスの場合)Home |

木曜日, 10月 12, 2006

ハルヒ:不描之描(例えばEDダンスの場合)

人は文章や映画などを見るとき、書/描かれていることだけでなく、むしろ書/描かれていないものを積極的に認識し補完しようとします。


これ、エンディングダンスシーンの「Boooon」の動作のひとコマですが、どのタイミングのところかわかりますか?

大抵の人は最後のちょっと前あたり、Boooonの“n”の直前あたりという印象を持つのではないでしょうか。

実はこれ、このカットのラストの絵なんです。
ダンスシーンでは、伸び上がる動作がもっと上までいって形としてフィニッシュまでいってたように記憶してませんか?
ところが絵を見る限りでは、足の感じはちょっと不安定だし、手も上まであがりきってないし、視線移動もまだ途中で、明らかに動作はフィニッシュしていないように見えます。

エンディングのカット割では、曲のリズムの区切りの直前でこのカットをおわらせ止絵につなげています。この微妙なタイミングと動作の不足によって、見ている側はポーズのフィニッシュを脳内で補完させています。なまじ元の動きがいいために途中で動きが切られても感覚が補なうため、受け手が望むもっとも可愛いカットによるフィニッシュとなっているはずです。

ダンスの前半部分は、このような細かいカット割りと止絵を組み合わせて、密度の高い動きを視聴者に印象づけ、かつ、「ダンスをまとめて観させてくれ!」という飢餓感をあおっています。「地球の果~てまで♪」「あっそっぼぉ♪」のダンスの部分も単に細切れにしているわけではなく、フルショット、アップ、俯瞰+広角、といった種々の構図をとりまぜて、見る側の補完機能をフルに稼動させています。
そして終盤は5人のダンスを完璧に見せてくれて、ああ、いいもん見せてもらったご馳走様、となります。実に視聴者の心理を煽るうまい構成でしょう。

いわゆるハルヒダンスの影響力のすごさは数々のダンス映像からもわかるわけですが、これもこの構成の妙によるところが大きいと思います。


で、いよいよダンスの完全版がアナウンスされたわけですが、

『涼宮ハルヒの憂鬱』エンディング「ハレ晴レユカイ」完全版、DVD最終巻映像特典として収録決定
DVD最終巻「涼宮ハルヒの憂鬱 7」の映像特典について

これ、公開された絵コンテのままだと単に振り付けをなぞっただけで、振り付けの参考にこそなれ元のエンディングのようなインパクトはないと思うんですよね。2~3回みればもういいかな、ってなってしまうのでは。ただでさえ、自主的な振り付け動画が先行しているのですから、京アニの維持にかけてファンの期待を上回る映像を作って欲しいです。

ここは是非ともDVDのマルチアングル機能を使って、
・ライブアライブばりのカメラワーク版、と
・正面固定カメラ+アップ少々
という構成にしてくれないかな。

#あと、本家、絵コンテシンクロバージョンも是非

←  選挙2.0β | home | ハルヒ:プロアマプロ・・・・・・

月曜日, 10月 09, 2006

選挙2.0β

参院選:「1票の格差」5.13倍は合憲 最高裁
1票の格差2.18倍 衆院選有権者数

選挙のたびに繰り返されるこの「1票の格差」、定数や選挙区をちょこちょこと修正してもそう簡単に縮めることはできません。

そこで発想を変えてみる。

議員ひとりの議決権って別に1票じゃなくてもいいんじゃない?

そう、得票数に比例させるの。東京などの人口密集地の当選議員は1.5とか2.0議員相当になり、島根だったら0.4議員相当とかにしてしまう。これで一票の格差は事実上ゼロ。完璧。
多数派工作とかも単純な頭数だけでなく端数の積み重ねの戦いになるな。地方はもともと人口少ないわけだから、頭数をそろえねばならなくなるので、中央VS地方という構図になるかな。もしかしたら地方は発言権を強化するために対立関係を一掃して99%獲得などというどこぞの独裁政権のような得票で中央へ進出してくるかもしれない。


具体的な数値を衆議院で考えてみる。有権者は1.03億人(意外に多いな)、小選挙区300人(2005衆院選)だから34.3万人得票で1.0議員になる。
どれどれ2005年衆院選の結果でみてみると・・・・・

東京6区ででトップ当選 136,750  → 0.398議員相当
徳島1区でのトップ当選  68,026  → 0.198議員相当

・・・・・そうだった。50~60%だし死票も半分ぐらいあるだろうから当選者全体の議員相当数集めても1/4程度の75名分くらいしかないのだな。

「今回の衆院選の結果、議員総数は74.23人となりました」なんてニュースになったりして。

まあ、これはこれでいいかもしんない。投票率の低い地区はそもそも発言権少なくなる。
それに当選した議員全体で有権者の2/3以上の得票集めないと絶対国民投票とかもできないわけだし。


←  かけ算1.1 | home | ハルヒ:不描之描(例えばEDダンスの場合) →