金曜日, 4月 13, 2007

ドラマ:演歌の女王 総括

4月からもう新しいドラマが始まっているのに今更ではあるが、「演歌の女王」が、なぜ、あそこまで迷走してしまったかを勝手に推測して締めくくりとしたい。

一言でいえば「製作陣全体でのビジョンの欠落」が最大原因だったのではないか、と思う。

放映終了後、脚本家や演出家が本来描きたかったものはなんだったのだろうか、と考えてみたがいかんせん手がかりがなさすぎる。話が動き始めそうに見えた5幕あたりから迷走が始まってしまったからなあ。結局数少ない伏線すら全然回収されなかったし・・・・・・・・

もしかして「脚本家も何をやりたいか考えあぐねての見切り発車だった」のか?

そう考えると第1幕以降のもたつき感もしっくりくる。とりあえず、売れない演歌歌手の背景と日常と不幸色々とを配置しておこうか、という程度の作りこみだったのでは、とか。

そのような状況として可能性として考えられるのは、
「表現したいテーマがあって売れない演歌歌手」を設定したのではなく、
「演歌(歌手)をモチーフに何かドラマを仕立てなくてはならなかった」
という類のことではないだろうか。例えば広告代理店の何かのマーケティングの一環で「演歌プッシュ」という流れに巻き込まれてしまったようなものとかね。

傍目には、脚本・演出・役者陣・土9枠、どれをとってもはずしようのない布陣にみえたのだが、やはりドラマや映画は総合力が勝負なのだ。関係者の製作へ向かうベクトルが揃わなければ、全体のパワーも勢いも全然見当はずれになってしまう。

今にして思えば、やたらと「女王の教室」がらみのキャストやネタをからめたりして数字を取ろうとしていたことや、着歌ダウンロード好調などと別方向の材料で盛り上げを煽ったりと、
妙にあざといことをしていたが、視聴率のテコ入れだけではない思惑が働いていたということなのかもしれない。

そうゆう穿った目で総括してしまうと、

中森明菜カバーアルバムで演歌歌う

という記事も、ついつい斜めに見てしまう。演歌ねぇ。これも「演歌」テコ入れの一環なのかなあ。
もしかして森進一の騒動も実は似たような狙いだったりして。

まあ陰謀論的妄想は置いとくとして、やはりドラマでも映画でもアニメでも、スタッフ全体のモチベーションを束ねられる確固たるビジョンがないことには、どうにもならんのだろうなあ、という月並みな結論ということで。