ラベル 映画 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 映画 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

月曜日, 8月 20, 2007

映画:「夜のピクニック」 原作イメージを見事に映画化

「夜のピクニック」の原作は第2回本屋大賞受賞作であり、詳細については改めて説明するまでないだろう。24時間かけて80キロを歩くという「歩行祭」を舞台にした青春ドラマを描いたものである。

 正直言ってこの映画、表面的な演出はすべりまくっている。

 カメラワークは説明過剰だし、ギャグやコメディはベタベタでグダグダであり、挿入されるサブエピソードもメインプロットとうまく絡んでこない。

 おそらくは、製作サイドが、特に大きな山場のない原作ストーリー(だからといって面白くないわけでは全然ないのだが)に映画的メリハリをつける、とか、青春モノとしてのお約束のパターンを入れよう、とかして結局滑ってしまった、という、よくある失敗パターンの典型のような気がする。


 が、しかしこの映画はやはり佳作として評価されるべきものだと思うのだ。

 それは、この映画では、歩行祭という非日常的なイベントの空気感が、フィルムの隅々にまで刻みこまれているから。この点につきる。

 特に大きな山場がないというのは原作でも同様なのだが、それは歩行祭というイベントそのものが物語の主体であるためだ。
 丸一日かけて長距離をひたすら歩くという極限状態の中では、日常の外面は脆くも剥がれて真に近い人間性見えてくるのであろう。この作品では、そのような極限の状況下で展開する、主人公達の精神的な葛藤と、“あるわだかまり”の解消、が実にうまく描けているのである。

 表面的な演出がことごとく滑っているにも関わらずこの映画が原作の空気感を見事に表現できた要因のひとつはキャスティングであろう。
 主役の多部未華子は言うに及ばず、石田卓也(時かけの千昭のCVだ)、西原亜希(JR東のSuicaキャンペーン)、加藤ローザは本当に原作のイメージにマッチしている。郭智博(戸田忍 役)だけは原作のイメージ(時かけの浩介みたいな感じ)とちょっと違ったが、映画的には石田とのバランスがうまくとれていたと思う。キーマンであるところの役どころを実にいい感じでこなしていた。

 そして、この映画を佳作ならしめた最大の要因は、多部未華子が提案したという“プレ歩行祭”の実行なのだと思う。主要キャストとスタッフで、ほんとに60kmぐらいの歩行祭をやってみたらしい。この映画で表現されている空気感はそこまでやった経験の賜物なのだろう。
 仮に、脚本の過剰な枝葉を排して、役者の力量と観客の読解力を信じて淡々と演出していればあるいは、「リンダ・リンダ・リンダ」の向こうをはった傑作ともなり得たのではないかと思う。そこがちょっと残念だ。


 わたしがこの映画を昨年公開初日初回に茨城の某所で観た時のことであるが、上映後に後ろにいた二人連れのおばさんが

 「ちょっとの間、青春時代に戻ったね」

と感慨深げに話をしていた。あるいは水戸一高のOBで(歩行祭のモデルである)“歩く会”の経験者だったのかもしれない。

この映画のキャッチコピー「映画を観ている間は18歳に戻れます」は伊達ではないなぁ、と思った。

おまけ
・「ピクニックの準備」という前日譚のショートムービー集も一見の価値がある。主要人物ごとの前日のお話である。これは元々は映画宣伝のためにネット配信されたものであり、事前に観ることを前提に作られているようであるが、後から観ても充分面白い。機会があればチェックしてみて欲しい。
(追記:ピクニックの準備を詳しく紹介したブログがあった⇒ブタネコのトラウマ
 なお、恩田陸の短編でも同名の「ピクニックの準備」という作品があるが、こちらは本編の予告編というか習作という感じのものであり、上記のムービーの内容とはほとんど関係ない。

   
・ちなみに「夜のピクニック」は8月22日(水)24:20~ (木曜0:20) 
 WOWOW で放送されるので視聴可能なかたは是非チェックされたし

・また、たまたまであるが、この映画の舞台である水戸のそば東海村で上映会がある。
 近隣の方はもちろん遠方の方も映画をみて歩行際の舞台を確認してみては。
 入場料500円とお徳。

 東海ワンコイン劇場「夜のピクニック」
 8月26日(日)、午前10時、午後1時、3時20分、5時40分 500円
 東海村船場の東海文化センター(TEL029・282・8511)。
※日時や内容などが変わることもあります。主催者にご確認のうえお出かけください。

水曜日, 8月 08, 2007

映画:トランスフォーマー スピルバーグのダークサイド本領発揮

トランスフォーマーを観た。

スピルバーグやりたい放題の映画。ご馳走様、と言うほかない。
世間的にはマイケル・ベイ監督の手腕が評価されているが、この映画のテイストは完全にスピルバーグのものだと思う。

トランスフォーマーの世界観と容赦ない地獄絵図のような戦闘シーン、幼児性と残虐性をエンタテイメント超大作で両立させ、しかも興行的に大成功させている。こんなことが出来るのは彼ぐらいのものだ。

市街戦描写は本当に凄い。非現実的なロボットが暴れていて破壊の限りをつくしているにも関わらず、直接には市民の被害の描写がない。だから戦闘の迫力を純粋に娯楽として楽しむことが許されているのである。どう観たって数百人単位で死んでるだろ、あれじゃ。

どこの戦闘シーンでもいい。仮に、人体損傷のカットを、いや血が流れるカットだけでつけ加えたなら、即プライベートライアン顔負けのR指定間違い無しのジェノサイドムービーになってしまう代物だ。けど仕上がりは大迫力のアクションモノ。
超映画批評では、

この映画の難点は、とくにラストバトルなど、トランスフォーマーが激しく動く際にカメラが寄りすぎて、逆に映像の快感度を下げている点だ。トランスフォーマーの動く速度のリアリティには相当力を入れたようなので、なるべくCGのアラが目立たないようにとの意味合いもあるのだろうが、こちらとしてはもっと引きの映像を入れてほしいと思う。

としているが、これはCGのアラを防ぐという目的ではないと思う。いくつかあった引きの映像ではどうしても怪獣映画の構図になっていた。特撮好き向けのロボットものとしてはそれでもいいのかもしれないが、やはりこの映画では、“圧倒的かつ理不尽な力に蹂躙される人間達”という視点を徹底したのだと思う。

それにしても、スピルバーグもうまいことバランスをとったと思う。
このバランスの実現については、マイケル・ベイの貢献が大きい。映像職人として弩派手なアクションシーンの構成力は、戦闘の激烈さを際立たせつつ、スピルバーグの残虐性をうまく覆いかくしている。元々プロットもテーマもおまけみたいなものだから、まさにベイ向きの映画だったのだ。

・・・・えーと、褒めてますからね。一応誤解なきように。


予告編だといわゆる侵略(インベイジョン)SFっぽい印象が強いのだけど、そういうわけで、本編はいきなりの戦闘で、メガトロンvs米軍 ⇒ メガトロンvsサイバトロン+米軍、という流れであり、米軍のプロパガンダとしてもいい線いってる。

ラプターやオプスレイといった最新鋭機も出てくるけど、インパクトはAC-130ガンシップが最高だね。「空飛ぶ砲台」の異名は誇張でもなんでもなく、左舷にのみ装備された重火器105mm砲を左旋回しつつ地上の一点に叩き込む姿は米軍の攻撃シーンの中で一番迫力があった。あれ本物なんだよねえ。

そうそう、この映画ロボット達のCG以外は極力ライブアクションで撮影したらしい。実際、その効果は映像の迫力に充分発揮されていると思う。現実に起こりうるアクションについては、まだまだCGでは及ばないところがあるのだな、と認識した。

#なにげにT2(戦闘機じゃなくてシュワちゃんのやつね)へのオマージュがあったのは何故だろな?
 カマロから自転車で逃げるとこだ。

日曜日, 8月 05, 2007

映画:エヴァ予告

たまたま終末に劇場に足を運んだので氷川竜介ブログで紹介されていた「エヴァンゲリヲン:序」の本予告を観ることができた。

うわぁわぁわぁわ!! 
まずい、やぱび、スイッチ入ってしまった。
一気に観たくなってしまった。
ってゆうか観る。観ねばならぬ


今回のリメークは正直については
「はいはい、機会があったら昔ハマったよしみで、お布施と思って付き合いましょうか」
程度だったのだ。パブリシティもあんまり張ってないし。

がしかし、現代の制作技術を投入して作成された映像クォリティの上でエヴァの世界がまた繰り広げられているのを見せつけられると、往年のエヴァオタの血が蘇ってきてしまったよ。

参った。また、公開毎に次の封切りまでじりじりさせらるのね・・・・

そうゆうわけで、エヴァで人生誤った類の人達はしばらく劇場に近づかないほうがいいと思うよ。
あ、もちろん公式サイトもね。

月曜日, 7月 30, 2007

「時をかける少女」は無謬である

「時かけ」は理屈抜きに面白かった。

で、今度は理屈で楽しんでみる。

とりあえず「死にたい」「欝になった」類のコメントは当人側の問題なので理屈でどうこうではないのでパス。

他のコメントではダメだししているものが結構あった。
どうやらこの映画に対する否定的なコメントのポイントは、タイムリープの矛盾・設定ミス・ご都合主義というところにあるようだ。

気に入った作品については、ポカも含めてそれを“真”としてこそ、理屈での楽しみ甲斐があるというものだ。
ちょっと指摘項目を肯定的に解釈してみよう。

以下、メインプロットのネタばれに触れので未見の方はご注意。



















指摘ポイント:
最後の千昭のタイムリープで真琴の記憶が残っているのがおかしい。他のタイムリープ描写では、タイムリープの当事者以外は時間が戻る前の記憶がないはずだ。

肯定的解釈:
千昭のタイムリープの描写は真琴のものと明らかに違う。時間停止状態に真琴を巻き込んでいる。これはつまり、真琴も一緒に過去に連れて行ったという解釈するほうが自然。
真琴のリープ残り回数が元に戻ることについては、残り回数が減るのはあくまでタイムリープの行使者の分という解釈で。
インタビュー資料に「タイムリープのチャージについてはSuica理論というのがあって・・」という表現があり、これはだれがチャージを負担するか、ということを指しているものと思われる。


念のために付け加えておくと、否定的コメントに反論とか議論をふるつもりは毛頭ない。
ひっかかった点を解釈して、あくまで理屈で楽しむだけである。

「河童のクゥと夏休み」を観たかったのだが

昨日はほんとは「河童のクゥと夏休み」を観るはずだったんですよ。

待ちに待った原恵一の新作。ここのとこ原監督のインタビューなどパブリシティも強力で、TV・劇場とも予告が結構かかってたこともありかなり興味をそそられていたのです。

で、公開初日7/28に久々に時間が空いた。
これは行くっきゃない! 

さっそく近くのシネコンのスケジュールを確認・・・・・・
・・・・・・ない。
もうひとつのシネコンは・・・・・・・・こっちもない。

おーい。予告編さんざかけてた当の劇場で公開がないってーのはどうゆことよ。
まあ地方都市であることは認めるけどもシネコン3つのどれにも公開なしって・・・・

オフィシャルHP確認したら、全国で100館ちょっと。まあ無理もないかぁ。

#そうゆうわけで、夏の映画の代替案として「時かけ」を観たので、まあ結果オーライなんだが。

で、これまた「時かけ」の関連資料を読んで知ったのだが、P&Aという言葉があるのだね。
Print and Advertising 要はフィルムのプリント数と宣伝の金額の比率。「時かけ」は単館系で13本でスタートだったとな。けど近所でも公開してたから順番にフィルムが回ってきてたからなんだな。まさにロードショーだったわけだ。

そう考えると「河童のクゥ」の公開規模と宣伝量は決して小さなものではないのだな。100館「ケロロ」並みらしい。
いかんせん回りでやってないのはいかんともしがたい。
ほんっと機会損失だよ。もったいない。

はよ、ロードショーで回って来ておくれ。

土曜日, 7月 28, 2007

「時をかける少女」をようやく観た

やっと観た。

劇場公開で機会を逃し、実に1年目にしてようやく。
といっても地上波放送ではないっすよ。

DVDですよん。しかも初回完全限定版。
Amazonでとっくに入手済みだったのになにやってんだか。
それも、3ヶ月目にしてようやく封印が解かれたわけで。

 理屈抜きに面白かったぁ。

(たまたまなんだけど)やっぱ「時かけ」観るなら夏だよねぇ。

これまでなかなか封を切れなかったのはきっと“時かけさま”がタイミングを見計らっていてくれたのに違いない。うん、きっとそうだ。

来年からは「時かけ」を夏休みの定番放映にしてしまえばいいのさ。
毎回15%は固いぞぉ。

さあ、これから貯めに貯めていた関係書籍・ビデオをみるぞぉ
絵コンテ・NOTEBOOK・オトナアニメ・フリースタイル、それからBSアニメ夜話だ。

それともちろんDVD限定版の付録や特定映像も(^^

あ、そういえば「時かけ」美術監督の山本二三氏が監督を、奥寺佐渡子が再度脚本を務める「ミヨリの森」は、フジTV8月25日21時~ 放送だ。美術がすばらしいのは疑いの余地がない。作品の仕上がりにも期待。アニメーション・ノートNo.05に「時かけ」の仕事も含め紹介記事あった。

ところで、
はてブあたりでは「時かけで欝」とかいう記事がいっぱいのようだが、この傾向は、学園を舞台にした秀作が出現される度に繰り返されることになるのだろうか。
まあ見方を変えれば作品の完成度の高さの裏返しなんだろうけど、もったいないなあ。いっそのこと異国のファンタジーとかパラレルワールドの学園モノと割り切って楽しめばいいのになあ。

そうゆうわけで「時かけ」と「耳すま」と「リンダ×3」は季節ごとの放映を義務付けてしまえばいいのさ。

火曜日, 7月 10, 2007

なんたら2.0とか

「WEB2.0」という絶妙なネーミングは、一見ソフトウェアバージョンな印象のもとに、「次世代~」とか「ポスト~」というニュアンスの新しいフレームワークを与えた。
また、これほど中身がないにも関わらず広く普及したコンセプトはなかなかに珍しいものであろう。なにせ回りが勝手に解釈して、意味づけを広げくれるのだから。

その後、業界内では「なんたら2.0」という言い回しが、半ばジョーク的なニュアンスも含んで普及したのは承知の通りである。

で、最近では「DoCoMo 2.0」に「ダイハード4.0」と、ついにはCMや映画にまでこの言い回しが波及してきている・・・・・・・・・・・いや、違う。映画については先例がある。

実は、このバージョンナンバー表現のルーツはWEB2.0よりはるかに古く、とある映画に使われていた。しかも非常に正しい意味でである。

Star Wars Epsode 1.1 The Phantom Edit
これがそうである。

紹介記事⇒原えりすんの電気オタク研究所 バックナンバー 2002年1月24日の記事
海外の紹介記事もあった。

上記の紹介記事を読んでいただければわかるが、これ、エピソード1の出来のあまりのひどさに腹をたてたマニアが自家版で再編集してしまったもので、こちらのほうが出来がいいと評判になったものである。

そういう意味で“1.1”というマイナーアップデートのバージョン設定は極めて正しい。
ネーミングだけで大笑いした記憶がある。

今ではこの表現も広く普及してしまいインパクトもなくなり既に手垢のついた言い回しになりつつあるので、次は、αとかβ版とか、XPだVistaだとか使われるのか。

#あ、そういえばバージョンではないが「ブルースブラザース2000」ってーのもあったな。

日曜日, 11月 26, 2006

むしのしらせ

訃報:フィリップ・ノワレ氏76歳=フランスの俳優(毎日新聞)

 映画「ニュー・シネマ・パラダイス」の映写技師役などで知られ、フランス映画の最高賞であるセザール賞の主演男優賞を2度にわたって受賞したフランスの男優、フィリップ・ノワレさんが23日、死去した。76歳。代理人の話としてフランス公共ラジオなどが伝えた。フランスのテレビは死因をがんと報じた。

先日のエントリでちょうど「ニューシネマパラダイス」のことを思い出していたその日に映画技師を演じていたフィリップ・ノワレ氏が亡くなっていたのだった。
単なる偶然なのだけど、ついつい、虫の知らせというのを感じたくもなってしまう。

思い出深い映画を遺してくれたことに感謝しご冥福をお祈りするしだいである。

木曜日, 11月 23, 2006

Where the Hell is Matt?

藤子・F・不二雄の短編に「ある日…」という作品がある。

映画サークルの4人が作ったそれぞれの自主制作作品をテーマに、途中まではユーモラスに、そしてラストは衝撃的に終わる名作「ある日……」


藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版 (7) (amazonの解説より引用
初出はマンガ奇想天外/82年

この作中のユーモラスな自主作品のひとつが“世界中を走る男”というアイデアのもの。ピラミッドの前をランナーが駆けてゆく。次のカットではパリ、次はロンドン、モスクワ、アメリカ、インド・・・・、と世界中を駆け抜けてゆく。(記憶に頼っているので国は違うかも) 種を明かせばランナー(=作者)は仕事の関係で世界中を飛び回っているので、行く先々の名所名跡でランナーの格好に着替えて走りそのフィルムをつなぎ合わせる、ということだ。


初めてこの短編を読んだとき「旅行好きの誰かで本当にやってる人いるだろうなあ」と思ったものだ。

いたよ。
Where the Hell is Matt?


世界中の名所名跡(それもすごいとこばかり)で楽しそうにダンスをしている。ダンス? 手をふり足をじたばた、はっきりいってファニー。けど楽しそう。本当に楽しそう。こう書くと藤子・F・不二雄の短編のようにユーモラスな作品だと思うでしょう。
全然違う。

正直に言う。泣いた。

ワールドサウンド系のBGM(Deep Forest:Sweet Lullaby)とのマッチングが抜群なのもあるのだろう。素直な感動と切なさと懐かしさと胸をかきむしられるような焦燥感とがあいまった不思議な感情が呼び起こされるのだ。
なんなんだろうね、この強烈なメッセージ性は。映像と音楽、それにのせる人の感情の強さなんだろうか。未見の方は是非。

藤子先生が観たらどんな感想を持ったかなあ・・・・きっと同じようにびっくりしたと思うなあ。

#いろんな反響はひろぶろ:世界中でダンス その2 のコメント欄を参照のこと。感動者多数。


なんだかこれと似たような感覚の記憶があるなあ、と、つらつらと考えて思い出した。
「ニューシネマパラダイス」のラストだ。
映画監督となった主人公が、幼い頃なついていた映画技師の遺したフィルムを観るシーン。検閲カットしたキスシーンのみをつなぎ合わせたフィルム。懐かしさや自分の人生を振り返る、主人公の凝縮された思いが伝わってくるシーンである。懐かしさと切なさの感じがちょっと似ているような気がした。


←  CM:ソフトバンク キャメロン・ディアス(私ならこう演出する)Home |
NEXT→

火曜日, 9月 19, 2006

映画:リンダリンダリンダ

(犬井ヒロシ風にお読みください)

リンダ×3のブルース
リンダ×3のブルース 聴いてくれ

こないだ、「リンダリンダリンダ」っていう女子高生が文化祭でバンドをやるっていう
いわゆる青春映画を観た後の話なんやけどぉ~

ストーリーや出演者や演出にめちゃめちゃ共感して
   神映画である
と全人格をかけて絶賛するのか~

それともぉ~

シネフィルきどった古臭い映画センスの作品が世にはばかるのは我慢ならんと、自らの映画センスに賭けて
カットを割らないでダラダラ撮り、奇妙な「間」を生み出すことが、あたかも「作家的」と思われる傾向が、この国にはあるが、これは、ただカット割りの技術すらない素人同然の演出で、金取って見せてはいけない代物だ。
と全否定するのはぁ


自由だあーーー!!!!

リンダ is freedom ♪ リンダ is freedom.♪
(繰り返し)

けどぉ、掲示板で相手のレビューの否定をすると大炎上になるから、アップするのは自分とこのブログだけにしといたほうが、ええでぇ。

チャラチャ チャッチャーン






はい、微妙な売れ筋のお笑いネタで、数少ないリピート読者までも置いてけぼりにしたところで、映画「リンダリンダリンダ」(以下、リンダ×3)のレビューです。
 関連エントリ: ハルヒ:検証 ライブアライブとリンダリンダリンダ
         ハルヒ:ライブアライブとリンダリンダリンダ


総評:製作・監督・脚本・役者・配給の意図と個性が奇跡的に融合して生まれた青春映画。

この作品、好き嫌いがわかれる映画だろうなあと思ったら、やっぱり賛否真っ二つ。意外だったのは賛成のほうがかなり多かったこと。例えば映画生活の採点分布。普通は好評な作品で80点あたりをピークに山がた分布でしょう。ところが「リンダ×3」では100点と0点を極大にした谷がた分布です。しかも圧倒的に100点側に触れている。好きな人は好き、嫌いな人は嫌いというカルト系作品に良く見られる傾向ではありますが、そうゆうのってマニア受けですから、全体で「好き」の側が優勢って珍しいですね。

では何故に好き嫌いが分かれるのかというと、作品に散りばめられた要素が観客の感情にポジティブフィードバックをかけてくる作りになっているからなんだと思います。だから共感できる要素を見つけられる人には、どんどん作品が「自分にとってリアル」になってくるという好循環、逆にだめな人には、要素の全て、特に演出面が駄目駄目になってしまうという悪循環を生み出すのでしょう。

つまりこの作品は骸骨みたいなもので、観客が共感によって自分向けの肉付けをすることによって各々の傑作に昇華されているものなのでしょう。幅広く、如何様にも肉付け可能な骸骨を実現したのは徹底した脚本の削り込みと監督の演出の賜物でしょう。そしてその骸骨に観客の感情を共感させることを可能としたのは4人の女の子達の存在感と空気感に拠るところが大きいと思います。

もう本当に絶妙なタイミングで集結された企画と才能によって成立したとしか思えない稀有の作品でしょう。

まとまりがつかないので、後は雑記でお茶を濁します。


私の好きなシーン:夕方、スタジオから学校への帰り道、4人が川沿いの堤防を楽器を担いで連なって歩くところです。風景を広く捉えた俯瞰から4人の歩みをフォローで追いかける。黙々と、しっかりと、等間隔で歩いていく姿。
絵として綺麗とかリアルかどうかとかでもなく、具体的なシチュエーションが思い出せるわけでも言葉にできるわけでもないんですが、確かに高校生の時のどこかの風景のひとつなんですよ。


演出関係トリビア(内容に触れますので未見の方はご注意を)
 後半部の夢のとこ(サプライズで“大きい手のプレゼント”をもらったり、武道館(どこのだ(^^; )に立ったりするシーン)、好評価の人にも「蛇足だ」とか「わけわかんない」とか言われてるんですが、実はここのシーケンスは結構ひねくれた演出がなされており、解釈の余地があるんですよ。

シーケンスのおさらい。
(1)スタジオでの最後の練習中、恵ウトウト
(2)目を覚ますためにトイレに顔を洗いに行く
(3)ソンも来て会話をかわす。「バンドに誘ってくれてありがとう」
(4)トイレから戻ると元彼がギターでお出迎え
(5)お母さんがケーキまで持ってきてサプライズパーティーだ
(6)元彼からのプレゼント“大きな手”

(7)シーン学校 「先輩達どこいったんだろう」

(8)恵ステージ(武道館!?)に立つ。ピエールさんたちも来てくれた
(9)携帯の着信音でようやく目をさます。


これ、少なくとも(8)のところで夢であること気づくのですが、ひねくれたことに(7)の現実のシーンをはさんでいるために、どこからが夢の始まりか溯り難くなっているんですよね。正直言って、私も(8)でようやく、なんだあ夢かあ、気がついた口です。
じゃあ夢が始まったのはどこからかなと考えると(2)のトイレのシーンから、と考えるのが一番素直なんですよね。トイレの照明がホワイトバランス設定間違えたみたいに緑色なのは違和感をかもし出す意図的なものでしょう。ということは、ソンの感謝の言葉のやりとり、も夢の中のことなんですよね。そもそも晩御飯の時には韓国語通じてなかったし。
これ以降にも“夢”の違和感は織り込まれています。
・(4)元彼。お、いつのまに。ちょっとケレンミがきつすぎないか
・(5)サプライズ。あれ?このスタジオ学校から遠かったよな。なんでお母さん?家は近いの?それになんのサプライズ。誕生日か?違うの?何?
・(6)“大きな手”のプレゼント。 おいおいシャレじゃないの。一瞬ひくだろう。そんなに感動するとこか。そもそもそれつけてギター弾けるのか。なんで誰もつっこまないの。

気がつけばこのように夢の伏線はちりばめられているのですが、監督はあえて(7)の学校のシーンを挿入して夢のシーケンスを分断しています。これにより時間経過による緊迫感を表面的に持たせつつ、実は意図的に夢の開始点をぼかしています。これは観客に解釈の幅を持たせるためでしょう。実際、レビューの中には、ソンと恵が感謝しあうシーンがよかったと言っている人もいます。それもありなんでしょう。可能な限り観客の解釈を許容して、観客の共感の度合いを強化できる構造になっている。これがこの作品の強みなんだと思います。

レビュー大炎上
最初のネタ中の批判は、なかなかの激論に発展しました。はたから見てると面白いです。結構参考にもなるし。ただ、どっちもどっちで、スネークマンショーの音楽批評バトルのねたを思いだしてしまいました。

月曜日, 8月 07, 2006

ハルヒ: 検証 ライブアライブとリンダリンダリンダ

ようやく映画「リンダリンダリンダ」観ました。

まずプロットについてですが、『リンダ…』は2005年7月公開、一方『涼宮ハルヒの動揺』は2005年3月31日初版、なお「ライブアライブ」は短編としてザ・スニーカー2004/10掲載つまり雑誌発売は9月で執筆はさらにそれ以前。なので、バンドメンバーが怪我して・・というプロットはパクリではないのは明らかです。逆に『リンダ…』がハルヒを参考にした可能性も、映画制作の期間を考えるとほとんどないでしょうかなり少ないのでは。(追記:ライブアライブの初出のタイミングを考えると可能性はなくはないです)まあ、ありがちなプロットですから。
ただしアニメ制作時には既に『リンダ…』は評判になっていましたから、「学園際、バンド、ギターが怪我して代役」という類似のプロットをスタッフがほっておくわけがないのは必然かもしれません。もっともZONEネタは4人組という以外に必然性がありません。完全に趣味の世界でしょうか。
(補足:山本氏は、ライブアライブ製作決定後に『リンダ…』の公開を知り、プロットが似ているならばいっそのことリファーする、と決めたそうです(関連エントリ)。ですから、まず4人組バンドという設定が優先されている可能性が高いです。)

さて、ライブシーンがパクリかインスパイアかオマージュかレスペクトか否か、について結論から言えば、

『リンダ…』の基本構図を全体的に参照しているが、『ライブアライブ』では
 ・多様なアングルのカット(アオリ・俯瞰・ハンディ)
 ・曲のテンポおよび盛り上りにマッチした編集
 によって圧倒的なライブアクトの躍動感を表現している』

ということでした。
リンダx3とハルヒのなんとか より比較画像


上記画像だけでは「似たようなシーンを選んでるんじゃないの」という可能性もあるのですが、映画をみれば『リンダ…』を参照しているのは明らかです。学園祭映画の傑作へのレスペクトという印象をうけました。

もちろん、単なる参照というわけでは全然なく、この話のライブシーンはこの回の肝ですから演出も気合が入ってます。結局先のエントリで予測した、

特に上記サイトの比較では、前回言及したロー/ハイアングルのカットがありません。あとハンディの手振れのカット。これらは特徴のある構図なので元ネタであるとしたら比較対象になるはずなんですが、これがないということはライブアライブでの独自演出ということになります。(仮にそうだとすると)アニメだと更にここまでできるんだぞ、というスタッフの意気込みが炸裂した挑戦状といえるでしょうか。

は、ほぼ正解でした。違ったのは「挑戦状」という切り口。
というのは『リンダ…』のライブシーンはもともとライブアクトの躍動感を狙ってはいないんですよね。ライブで用いられている構図も映画全体で一貫しているものです。
一方『ライブアライブ』のほうではプロットの要請として、聴衆およびキョン(≒視聴者)をそのライブアクトを強烈に印象付けなくてはならないので、気合の入った作画とカット割りによってそれを実現しています。実際、この回は、スタッフは「スタッフは命を削った」と言っていますが、ライブシーン以外の学園祭のシーンも含めて、ほんとにそうだろうと思います。

あと細かいこと色々。

 上の画像で、共に曲終了後にボーカル(ソン・ハルヒ)がメンバーと順番に視線を交わすシーンがありますが、『リンダ…』では、上記のカットにメンバーそれぞれのカットがはさみこまれます。『ライブアライブ』では、ハルヒが3人と視線をかわす過程はワンカットです。この違いはそれぞれの映画で表現しようとしてる内容の違いが演出として異なってくるかを示していて面白いです。

 下から6番目の「ステージを見る、槙原・キョン」の図。この構図の類似も偶然ではないですね。槙原は訳あってボーカルのソン(ペ・ドゥナ)を見つめているんですよ。腕を組む姿も一緒ですし。この槙原君を演じているのは、画像だとちょっとわかりにくいですが松山ケンイチです。
そう、『デスノート』でエルを演じた彼ですよ。これを踏まええると最近流布したガセネタ「涼宮ハルヒの憂鬱が実写化」(リンク先はガセネタであることを紹介している記事。)の配役

 キョン:松山ケンイチ(21)
 涼宮ハルヒ:新垣結衣(18)
 朝比奈みくる:戸田恵梨香(17)
 長門有希:黒川芽以(18)
 古泉一樹:石垣佑磨(23)


も味わい深いわけで、(w
ちなみに、みくる役の戸田恵梨香はミサミサです。うーむ・・・・
(10.15 追記:アニメ版「デス・ノート」のミサミサはハルヒcvの平野綾。なんか縁ありますね)
個人的には長門由紀長門有希は福田麻由子(女王の教室 真藤ひかる・白夜行 雪穂の幼少時・ちびまるこ実写 お姉さん役・日本沈没)なんですが、まだちょっとはやいですかそうですか。
(09.09追記 youtubeで割と最近の福田麻由子の映像みつけました。 また大人になりましたねえ。もういけるかも)


#『リンダ…』についてはいずれレビューをまとめたいと思います。(こちら)この映画好き嫌いがはっきりわかれるようですが、私は好きです。
#実はこのサイト、キーワードがライブアライブ、リンダリンダリンダで来る人がすごく多いんで、ちゃんと観て比較せねばと思ってたんです。これで期待にこたえられましたでしょうか(w  私としても、そのおかげで『リンダ…』という作品をちゃんとみる機会をつくれてラッキーでした。

土曜日, 7月 29, 2006

小津監督関係 補足

前回のエントリーで小津映画の特徴的な構図の実例を探していて参考になるサイトと映像をみつけました。

小津映画入門


#残念ながらリンク切れ。とっても参考になるコンテンツだったので非常に惜しい。どなたか移転先ご存知でしたらご連絡ください。
 

小津のスタイルとして一番有名なのが、ロー・ポジションのカメラだ。カメラは、あらかじめ決まった位置に据えられて動かない。その他にも小津映画にはさまざまな特徴が見出せる。たとえば、人物の正面撮影、画面の左右対称の構図、人物の並び合うかたちなど。また繰り返しが多いのも大きな特徴だ。ここでは『東京物語』(1953年)を例に、そうした<かたち>や<絵柄>に着目しながら、小津映画の表現を探ってみよう。

特徴的な構図の効果やその繰り返しによる表現についてわかりやすくまとめられています。「東京物語」は予備知識なしで観ても十分に心に余韻が残る作品です。上記の解説にあるような映像演出は、映像文法などの理屈抜きで観客に自然に伝わってくるものなのですね。

もうひとつ
T.M.Revolution 魔弾(YouTubuYouTube)

T.M.Revolutionの曲を小津映画パロディで構成したビデオクリップです。この作品、それなりに評判になったそうですが全然知りませんでした。どうも一般には「昭和中期風日本映画の雰囲気にTM西川の音楽を載せたミスマッチ(そして途中のありえない超展開)が面白い作品」という評価のようです。
しかしこの作品はとにもかくにも小津作品のパロディとして観なければその面白さも半減です。そもそもこれ、パロディの枠を超えてます。オマージュという言葉でも到底足りないぐらいの完成度で、そのまま小津作品の解説のサンプルにしたいぐらいです。
ローポジションのカメラ・肖像画のような人物描写構図・イマジナリーラインにとらわれないカット割など、小津監督の映画と見間違えかねない出来で、その特徴を十分に把握してもらえると思います。上記の小津映画入門で解析されている「不自然に遠回りする人物たち」の、玄関から部屋への人物移動時の独特なカメラ位置とカット割りについても短い作品内でストーリに組み込まれ完璧に再現されています。

このクリップのすごいところは単なるスタイルの借用だけはありません。小津映画の本来のエッセンスまで吸収しており、ストーリ構成および(途中の超展開は除いて)オチにおける本質的なテーマまでも共通です。ものすごい完成度です。
それに加えて、ビートのきいている歌詞を登場人物それぞれに歌わせつつ、その演技はオーソドックスな日本ドラマの表情とテンポのまま、という離れ業までやってます。
試しに音声OFFで観てください。この映像にT.Mの音楽が完全にシンクロしてるとは信じられませんよ。


#だからこそ小津作品の中で「ロ○ット○ン○」が登場するという超展開があるわけですが・・・

##あと、ヒロインが木村多恵(多江)だったのもびっくり。“薄幸美人役を演じることが多いためか、自他共に認める「日本一不幸が板に付く女優」”(Wikipedia)の名に恥じないヒロインっぷりです。

日曜日, 7月 23, 2006

ハルヒ:2話 ローアングルと奥行表現(小津構図)

揺れ画面の前にこのカットについて触れておかねば。


画像出展:DVD 涼宮ハルヒの憂鬱1より

谷口がキョンへハルヒの奇行の数々をかたるシーンです。

・アイレベル(カメラの高さ)が机の高さというローアングル
・他生徒や机上の牛乳パック越しでの3人の構図

これ小津安二郎(Wikipedia)の構図ですよねえ。
以下は東京物語の1シーン
・テーブルの高さのアイレベル
・ふすまや扇風機といった室内のもの越しの構図
といった特徴に類似性がみられると思います。


デジタル小津安二郎: 建築家としての小津安二郎  より
(http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1999ozu/japanese/07.html)

あえてこのような構図を用いた理由として、
・小津監督へのオマージュ
および
・昼休みの教室内での会話という構図の強調
でしょう。

前者については、大反省会 三年目のルサンチマン(その1)で以下のような記述が根拠です。


山:蓮實重彦に怒られる事はない(笑)。

山本 寛:俺はこの「イマジナリーライン」ってのは、そりゃ映画100年を支えて来た黄金律には違いないんだろうけど、もう観る側の中にリアリティとしてない、と思ってるの。

(注釈)しかし小津安二郎は知っていながら敢えてこれ(イマジナリーラインの文法)を無視し、結果その独自の映像美学が各国の驚異の的となった、という有名な逸話もある。


このように、山本氏およびスタジオ枯山水のスタッフには、映像文法と小津安二郎(あと蓮實重彦(評論家))についてそれなりに知見・影響があるようです。
#ちなみに「時をかける少女」の細田守も、 自作を語る『ひみつのアッコちゃん』 の中で蓮見重彦に言及しています。映像作家の基礎教養なんですね。(もっともこの記事は全体におちゃらけた体裁ですが)
そこでわたしは、手元にあったエイゼンシュテインの「映画演出法講義」(未来社)や、YU・M・ロトマンの「映画の記号論」(平凡社)や、松浦寿輝「映画nー1」(筑摩書房)や、蓮見重彦の「監督小津安二郎」(ちくま文庫)を手に取ろうとしたがアッコとは関係ないのでやめて、ひたすらシナリオと格闘した。


さて、後者の 昼休みの教室内での会話という構図の強調 については演出意図の推測にとどまりますが、このカットでは手前の女の子の楽しげな談笑の様子や、この構図のさらに手前を女の子が横切らせたりして、ことさらキョンたち以外の要素を描くことにより、クラス全体の雰囲気を印象付けようとしているのではないかと思います。 この後、谷口によるハルヒの奇行の解説とともに、屋上やプールサイドといった教室の外でひとり何かやらかしているハルヒを描写することによって、教室内の雰囲気との対比が強調されることになります。
ハルヒが既に孤立しつつあることについては、この直前のシーンでも細かい描写があり・・・・・

あーっ、全然次に進めない!!
続くぅっ!!! (Life Card 風)