水曜日, 12月 13, 2006

ハルヒ:2話 見た目のカメラワーク(2) 望遠

ハルヒメインのサイトのはずなのに11月のハルヒ関係、ひとつしかなかった・・・

そうゆうわけで、ひっぱったままだった「見た目」その(2)です。

谷口がハルヒの中学時代の奇行を語るシーンの一連の流れで、キョンは谷口の会話を聞きつつハルヒを遠くから眺めています。
 校舎横の階段踊り場から屋上のハルヒに気がつくキョン


このカットがキョン視点“見た目”となっています。



同様に教室から


プール脇で何ごとか思案しているハルヒをみています。

これらのハルヒのカットには共通点がありまして、超望遠で撮ったような感じで画面が揺れているんですね。(うまくGIFアニメにできなかったので確認したいかたは動画を参照ください。5分過ぎあたりからです。)もちろんキョンが双眼鏡で彼女達を見ているわけではなく、遠くのハルヒ(に注意がいっている、という表現な訳です。
この望遠カットの前後にはキョンのナレーションや視線移動の描写があるので、特別な演出がなくともハルヒのカットがキョンの“見た目”であることはわかります。ここであえて望遠の揺れを加えることによって、「遠くのハルヒを」「キョンから一方的に」見ているというキョンの心情が自然に感じられると思います。
実際の視覚では、このような望遠の揺れは起こらないのですが、TVや映画などで「超望遠」の画像というものを自然に感じられるようになっているからこそ、このような演出が効果を発揮できると言えるでしょう。

実はこの後に続く体育の授業中のシーンでも揺れる望遠のカットがあります。谷口がベスト3とする朝倉さんを挙げた時もキョン見た目です。


このカット、ハルヒに比べて明らかにアップになってますよね。つまり、ハルヒについては「なにやってんだ」という行動に注目しており、朝倉さんについては主にルックスに注意がいっているということがわかります。
#ちなみに、この次のカットでキョンは朝倉さんを上から下まで嘗め回すような見ているんですね。うむ、気持ちは良くわかるぞ。

このようにカットひとつひとつの演出が実に丁寧なもんですから、見直すほどに発見があります。
「見た目のカメラワーク その(3)フォーカス」に続きます。

日曜日, 12月 10, 2006

Yes, Virginia,

『サンタクロースをいつまで信じていたかなんてことはたわいもない世間話にもならないくらいのどうでもいいような話』だそうだ。
うん、確かにドラマやコミックのようには、こんな話題で盛り上がったりはしないだろう。
自分の記憶を辿ってみてもそんな会話をしたシチュエーションは浮かんでこない。実際、物心ついた時には親からそのままクリスマスプレゼントをもらっていた。
だから仮にそんな会話があったとしても「最初から信じて無かったよ」なんて場の空気を壊すだけだから、たぶん適当にごまかすぐらいしかなかったろう。

実は、今でも「いつまで信じてた?」という問いには満足に答えられない。
今は信じているからだ。サンタクロースを。

といっても別に宗教にはまったわけでも、超自然的な体験をしたわけでもない。しいて言えば、信じることを信じられるようになった、ということだろう。

きっかけは本当に単純なことだ。
年末で何かと慌しかった頃のこと、連日帰宅は夜更けになっていた。日に日に寒さを増していく家路では、疲れと気苦労を溜めた背中を丸めて歩くうち、心まで冷えていくような気がする日々だった。

そんなある夜。なんだか我が家の門灯が遠目にも少し明るくなっていた。近づいてみると、なんのことはない、それは門の植え込みに飾られた20球ほどクリスマスライトであった。
妻が「クリスマスにはライト飾りたいね」と言っていたのを思い出した。

ほんとうにささいな飾りだったのだが、しばし寒さも忘れて家の前で灯りに魅入られていた。
なんだか灯りが暖かかったのだ。それだけで心も温まるようだった。

それだけだ。たったこれだけで充分だった。

ああそうか これがクリスマスなんだ 
この暖かさは妻からの優しさだけじゃない クリスマスライトがくれた暖かさだ
クリスマスだから こんなにも心が伝わるものなんだ 

サンタクロースを信じたことがなかった自分にさえも、クリスマスの思いは刻まれていたのだ。両親。祖父母。友人たち。遠くから近くから私を支えてくれた人たち、そしてきっとまだ見知らぬ人たちの思いさえも

そして これがプレゼントなんだ 

だから信じられる。
クリスマスに、そしてクリスマスだからこそもらえたプレゼントだ。
それはサンタクロースからに決まっているじゃないか。

それ以来、12月にクリスマスイルミネーションを飾るのは我が家の定例になった。
これは妻とともにサンタクロースを信じていることの証だ。
いや、今では妻と子供達とともにだ。

もっとも子供達が信じているのは、Xmasの夜にいつの間にかクリスマスプレゼントを置いていくサンタロースのほうだろう。
たとえ疑問をもったとしても、今はまだ「うちに煙突ないのにサンタさんどうやって入れるの?」というぐらいだ。もしかしたらそろそろ「サンタクロースって本当にいるの?」と質問してくるだろうか。
それでも自信を持って答えてあげられる。

 「サンタクロースはいるんだよ」

と。信じているんだから。

いつかは「サンタクロースはいないんでしょ」と言ってくる日も来るのだろうか。
ならばこう答えよう。

「サンタクロースを信じられない年になったんだね。
 けれども、またサンタクロースを信じられる日は来るよ。
 私は信じられるようになったんだ。ほんとだよ。
 お前にもその日が早く来るといいね。」

こう答えることになるのは、きっとさみしいだろう。
けれども、実は、ちょっと楽しみでもある。

君達にも
思いが届き、また届けられること
それを信じられる日が来ることを

Yes, Virginia, there is a Santa Claus.

金曜日, 12月 01, 2006

CM:ソフトバンク(その4)ブラッド・ピット編

キャメロンディアス第3弾 モンローウォーク編(勝手に名づけました)オンエア開始以来、本弱小サイトの検索キーワードが「ソフトバンク キャメロンディアス」に占領されてしまいました。なんか一番反応いいみたい。結局、第一弾のインパクトを超えるのはディアスのお尻でしたか。

まあ、確かに実際これが一番ディアスらしいっちゃあ、らしいですね。
で、先のエントリでちょっともったいない、としてまったのもなんなんで、モンローウォーク編の再評価をしようかなと思ってたら、いいタイミングでTVでCMが


あれ?
曲がWalk This Wayに戻ってる・・・って、ブラッド・ピット!?
検索してみたら10月時点の発表で既にピットのキャスティング発表されてたんですね。そう言えば記事を読んだ記憶があった。けど、ピットねえ、ふーん、程度の印象だったです。

それを切り札のディアスお尻で注目があがっているところにピットをかぶせてくるとは、やってくれるじゃないの。
ピットは既に日本のCMでは結構なじんでいるので、最初からピットだとインパクトは大きくなかったと思います。けど、このタイミングでの展開は男性・女性両方の購買層にアピールするでしょう。いいとこ突いてます、ほんと。


ピット第1弾(インド編?:勝手に名づけました)は、携帯で話ながら街を歩くという基本フォーマットで、最後にアクオス・ワンセグと製品ラインナップを区別してきました。
第2弾以降もこの路線でいんでしょう。ディアスのアメリカに対してピットはアジアシリーズでしょうか。最後に日本にきてくれれば、私が勝手に妄想した演出も、それなりだったことになるかな。基本フォーマット踏襲という期待は当たったし(男優だったけど)

3人目は誰かなあ。日本の女優さんかなあ。

#福田麻由子シリアスバージョン希望・・・・・・いや、それ、若年層を抑えてこそのシェア拡大ですし、それ以外の特定の層の掘り起こしもばっちりですしって、それは特定というゆうよりも特殊だろ、て単なる趣味ですか、そうですか。
 もうちょっと、乗り換え待とうっと。

関連エントリ:その1その2その3

日曜日, 11月 26, 2006

CF:ソフトバンク その3

ちなにみ関連エントリは、その1その2

先のエントリで「せっかくキャメロン・ディアス起用したんだから、続編はもっとはじけさせほうが」という声が届いたのか(んなわきゃない)、第3弾が放映されはじめました。

今度は商店前のストリートを歩くという前2作のフォーマットを踏襲しつつ、
・西海岸っぽい明るい感じ
・通りの男どもの視線を集めて闊歩
・最後に踵をかえしてお尻の携帯をみせ、「XS Coming Soon」

というように、「注目」「新製品」という方向への演出意図が感じられます。

んー・・・・ 結局のところ、このディアス3連作は企業広告ではなくて「新製品の前フリ」でしかなかったんですかね。つかみがバッチリだっただけに、なんかもったいない。

今後は、いっそのこと「大物女優が闊歩する」という基本フォーマットをベースにして、新たな演出を工夫できるか、というのを期待してみたりして。

その4へ:期待は半分当たってた!)

むしのしらせ

訃報:フィリップ・ノワレ氏76歳=フランスの俳優(毎日新聞)

 映画「ニュー・シネマ・パラダイス」の映写技師役などで知られ、フランス映画の最高賞であるセザール賞の主演男優賞を2度にわたって受賞したフランスの男優、フィリップ・ノワレさんが23日、死去した。76歳。代理人の話としてフランス公共ラジオなどが伝えた。フランスのテレビは死因をがんと報じた。

先日のエントリでちょうど「ニューシネマパラダイス」のことを思い出していたその日に映画技師を演じていたフィリップ・ノワレ氏が亡くなっていたのだった。
単なる偶然なのだけど、ついつい、虫の知らせというのを感じたくもなってしまう。

思い出深い映画を遺してくれたことに感謝しご冥福をお祈りするしだいである。

木曜日, 11月 23, 2006

Where the Hell is Matt?

藤子・F・不二雄の短編に「ある日…」という作品がある。

映画サークルの4人が作ったそれぞれの自主制作作品をテーマに、途中まではユーモラスに、そしてラストは衝撃的に終わる名作「ある日……」


藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版 (7) (amazonの解説より引用
初出はマンガ奇想天外/82年

この作中のユーモラスな自主作品のひとつが“世界中を走る男”というアイデアのもの。ピラミッドの前をランナーが駆けてゆく。次のカットではパリ、次はロンドン、モスクワ、アメリカ、インド・・・・、と世界中を駆け抜けてゆく。(記憶に頼っているので国は違うかも) 種を明かせばランナー(=作者)は仕事の関係で世界中を飛び回っているので、行く先々の名所名跡でランナーの格好に着替えて走りそのフィルムをつなぎ合わせる、ということだ。


初めてこの短編を読んだとき「旅行好きの誰かで本当にやってる人いるだろうなあ」と思ったものだ。

いたよ。
Where the Hell is Matt?


世界中の名所名跡(それもすごいとこばかり)で楽しそうにダンスをしている。ダンス? 手をふり足をじたばた、はっきりいってファニー。けど楽しそう。本当に楽しそう。こう書くと藤子・F・不二雄の短編のようにユーモラスな作品だと思うでしょう。
全然違う。

正直に言う。泣いた。

ワールドサウンド系のBGM(Deep Forest:Sweet Lullaby)とのマッチングが抜群なのもあるのだろう。素直な感動と切なさと懐かしさと胸をかきむしられるような焦燥感とがあいまった不思議な感情が呼び起こされるのだ。
なんなんだろうね、この強烈なメッセージ性は。映像と音楽、それにのせる人の感情の強さなんだろうか。未見の方は是非。

藤子先生が観たらどんな感想を持ったかなあ・・・・きっと同じようにびっくりしたと思うなあ。

#いろんな反響はひろぶろ:世界中でダンス その2 のコメント欄を参照のこと。感動者多数。


なんだかこれと似たような感覚の記憶があるなあ、と、つらつらと考えて思い出した。
「ニューシネマパラダイス」のラストだ。
映画監督となった主人公が、幼い頃なついていた映画技師の遺したフィルムを観るシーン。検閲カットしたキスシーンのみをつなぎ合わせたフィルム。懐かしさや自分の人生を振り返る、主人公の凝縮された思いが伝わってくるシーンである。懐かしさと切なさの感じがちょっと似ているような気がした。


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土曜日, 11月 18, 2006

CM:ソフトバンク キャメロン・ディアス(私ならこう演出する)

先日の怒りが届いたのかソフトバンクのキャメロンディアスのCMが元に戻ってました。#公取の指導だってば
まあとにかく、あの醜悪な「¥0」がなくなっていて、めでたいめでたい。

なんだか、ここ2・3日で“ソフトバンク キャメロンディアス CM”で検索があったんですが、このためだったんですかね。たぶん15日ぐらいから元に戻ってたんでしょう。

あらためてこのCM(ストリートを歩くほうは“街角編”というらしい)について世間の評判を確認してみたら、意外にも
「ディアスのインパクトはあるが、何を言いたいCMだかわからん」
というのがちらほらと。
企業CMなんだから、まずはインパクトで充分なんじゃないかなあ。否定的な評価の人でもディアスを見た時に「おっ!?」と思ってたんだから、これはSoftBankの狙い通りでしょう。

ただ、次の“スーパーマーケット編”は、私も失敗だと思います。だってシチュエーションを代えただけで“街角編”と何にも変わっていないんですもん。これもディアスの存在感にのっかるだけじゃあまりに芸がなさすぎです。

“街角編”でツカミはOKだったからこそ、それに重ねてスーパー編で企業CMとしてもメッセージを出して、「なるほど、ここで企業としての方向性が示されるのか」となればよかったのに。
おそらく、製作側の意図としては、ビジネスシーン・カジュアルシーン・○○○シーンでかかせないSoftBank携帯、みたいなものだったのでしょう。しかし2作目では、もうディアス起用のインパクトがないですから、今のような内容では、1作目との対としての作品という印象しか残りません。もったいない。

ここはディアスにもっとハジけた演技をあてて「今度はディアスにここまでやらせたか!」というぐらいまで、このスーパーマーケット編自体のインパクトを強烈にしなくてはならなかったと思います。当然SoftBankの企業CMとしてのメッセージを含んでです。
ディアスは「クリスティーナの好きなコト(The Sweetest Thing)」で「メリーに首ったけ」とは比べ物にならないほどハジけてましたからねえ、それこそ予想外の演技してくれたんではないかと思うんですが。

私ならこうする
・ディアスにコギャル風(ゴスロリでもコスプレでも可)の装いをさせ、アキバや原宿あたりではしゃがせる。ある意味現代の日本の文化的アイコンである分野への進出・存在感を演出
・一転、下町の八百屋ですごく自然にとけこんでいるディアス

企業メッセージ  日本の文化に自然に溶け込む携帯インフラを実現する、という暗喩

 ⇒これはJ-PhoneがVodafoneになり日本市場にマッチしない製品展開や運営方針を繰り返したことを反省・やり直す意図として、ディアス(外国人)を日本文化に溶け込ませる、という構成にする。
街角編:ディアス起用のインパクトで充分。ここはまだ颯爽としたビジネスパーソンというイメージでOK
アキバ編:ディアスはじけてるよ!! 前作はニューヨーカーっぽかったのに今度はオタ外人
下町編:あれ今度は落ち着いたなあ。

てな感じ。 
#メイド服は似合いそうにないから、アクション系のコスプレがいいかな。あ、それだとチャーリーズエンジェルになってしまうか。

続き:その3その4

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木曜日, 11月 16, 2006

ハルヒ:2話 見た目でのカメラワーク(1)

“ハルヒ”はアニメ化に際して原作の一人称視点の原則を忠実になぞっています。ただし、一口に一人称視点といっても実際に映像化するには色々な方法があるので、どのような構図・カメラワークを採用するかが演出の腕のみせどころです。
#インタビュー記事によると、山本氏・石原監督ともども、相当検討を重ねたようです。

もっとも主観的な一人称視点はキョンが見ている映像で、いわゆる“見た目”というやつです。
“キョン視点”という表現ですと、「一人称視点」なのかそれtも「見た目構図」なのか区別がつきにくいので、一応表現を“見た目”で統一します。

2話(憂鬱I)は物語の導入部であり、視聴者に世界観をしっかり理解してもらうために、日常および背景をきっちり説明し、またキョンとハルヒの出会いから接近の変化を描かねばなりません。
この一連の流れのなかで、キョンの“見た目”構図とカメラワークの組み合わせが効果的に使われており、キョンの心情やハルヒとの距離感がうまく表現されています。

以下は「普通の人間には興味ありません」宣言の次の朝、キョンがハルヒの前に腰をかけるまでです。
 
 

・ハルヒは先に席に座っている

・横目で様子を伺うキョン

 #画像が多くなるので割愛しましたが、ここでのキョンの目線の動きも細かくて、気にしてないふりをしつつ目線を向けるという描写がされています。



ここまでは通常の描写です。




この次のカットがキョンの“見た目”です。(GIFアニメにしてみました。動かない場合はクリックしてみてください)
ちょっとわかり難いかもしれませんが、広角で周辺部に歪みが出ている絵であり、ハルヒが視界の隅に動くにつれて歪みが強調されています。
これは
「キョンがハルヒに顔を向けずに横を通り過ぎつつ視界の隅っこでハルヒの顔を見ている」
という状況を、キョンの見た目構図にして、それを広角レンズでの歪みという絵にすることによって、視界の隅で見ている、という表現を実現しているわけです。現実の“見た目”の絵はこうは歪まないと思いますが、一連の流れで自然に「ああ、横目でみてるんだな」と理解できてしまいます。

この次のカットでキョンは思い切って「なあ昨日のあれ・・・」とハルヒに向かって話しかけることになるのですが、上記のつなぎカットは、そこまでのキョンの様子見の心情をさりげなく表現している巧みな演出だと思います。

#その(2)に続く予定・・・・・・・・・

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水曜日, 11月 15, 2006

ダリ回顧展にて

先日、ぽっかりと平日に時間がとれたのでダリ回顧展にいってまいりました。
久々のダリ、年を経てみると印象が結構かわるものです。
今回印象に残ったのは晩年の作品でした。遺作の記号的解釈に思索をめぐらしながら会場を後にしたとき、後ろから女の子(推定:女子大生)が

「ダリ ダリィーン ♪ (by 矢井田瞳)」

と歌いながら出てきたんですよ。

・・・・・・・・・・正直負けた、と思いました。
       で、ちょっと萌えたりして (*^_^*)

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木曜日, 11月 09, 2006

Blogger beta 移行

なんとなくBloggerをbetaに移行してしまいました。

見た目、特に変わったところはないのですが、RSSがちょっと変わったようでして、過去の記事のリンクやタグの修正をした場合でも最新記事として表示される仕様になっているようです。

微修正の場合でも、新しいポストを心がけるようにしなくては。

あと、Template内の日本語が全部化けてましたが、後で元通り直せます。

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水曜日, 11月 08, 2006

歴史をしらないと・・・・

履修漏れで世界史を学ばないまま世の中に出るのは大問題である。

だって、外国の学会や展示会などに行って会食か何か酒の席でドイツ人と話す機会があった時に

「今度はイタリア抜きでやろうな V(^_^)」


という、両国の技術力を褒め称える技術者として琴線に触れる、かつ、わりとボーダーなネタゆえに味があるという、ジョーク(半分本気)をかわすことができなくなってしまうではないか。

まったく嘆かわしいことである。

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月曜日, 10月 30, 2006

CM:ソフトバンク キャメロン・ディアス編

ソフトバンク携帯の企業広告(キャメロン・ディアス編:携帯で話ながら歩く姿を正面から撮ったもの)、このCMを初めて見た瞬間、正直

「おっ!キャメロン・ディアスだあ。なんのCMだ?」

と、画面に引き込また。
ハリウッド大物俳優(女優)を使ったCMはそれほど珍しくない昨今だが、久々に女優の存在感をストレートに前面に出したもので、なかなかいい、やっぱオーラが違うのかな、「予想GUY」なんかより、シンプルにインパクトあるよね、そう思ってた。

・・・・・・・・
・・・・・
・・・

それがなんだ「¥0」って、キャメロンの脇にチラチラしてるあれは。
台無しだ。
まるで新聞折込チラシだ。
携帯¥0(新規契約のみ)ってのと変わらない。


CFの絵を撮った監督とカメラとその他大勢のスタッフは泣いているぞ(たぶん)

旧バージョンが好印象だっただけに、その醜悪さは倍掛け以上だ。


・・・マジに乗り換えたくなってきた。
・・・・CMがここまでの(逆の)モチベーションを起こすこともある、っつーことだな。

(2006.11.17 追記 今日見た“エアロスミス”バージョンは元に戻って「¥0」チラチラがなくなっていた。公取の指導の影響かな。よかったよかった)
   続き:その2その3その4

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日曜日, 10月 15, 2006

不描之描弐(宮崎駿の場合)

不描之描の続き
 
宮崎駿が作画についてこんなことを言ってました。(出展失念)
「原画、つまりカットの最初と最後を決めのポーズや構図にしてはいけない。本当の動きは常に不安定なもの。ここがイラストとアニメの大きな違い。」

 確かにカットの始まりや終わりが構図として安定していると、そこで動きが止まってしまうんですね。宮崎アニメでは、この中途の動きの表現と、途中でのカット切り替えが絶妙で、動作が自然につながっています。加えて視点のつなぎと切り替えが丁寧で、どんな複雑なアクションシーンでも見る側が迷うことはなく、アクションそのものの妙をストレートに感じることができるように作りこまれています。表面に出てこない演出の技ですね。


岡田斗司夫がアニメ夜話(カリオストロの城だったかな)で言ってた宮崎演出の話。
 あるスタッフが、格闘シーンで短剣をスッと突き出す動作がうまく描けないでいた。それに対しての宮崎駿の指導。「短剣を突き出す習慣に、一瞬の刀の光の反射だけコマを挿入すればいい。」・・・・・すごいの一言。ほんとに「どう動かすか」を超越した表現力です。
 この逸話を紹介した岡田が付け加えるに「こんな化け物が親分だなんてやってられないよね。いつになっても凌駕できる気がしない。」 
 まったくです。


上で言及されている短剣のシーンは、ナウシカか、もののけ姫の格闘シーンだと思います。
ナウシカの他の場面でも、反射光の一瞬のきらめきを効果的に使っているところがあります。
室内の会話シーンで、テト(キツネリスだったかな?)がナウシカの肩の上をちょこちょこと動き回っているところです。ここでテトがナウシカのイヤリングを揺らし、その一瞬のイヤリングから反射光がきらめきます。
この描写の挿入は絶妙で、イヤリングが揺れた感じが自然かつリアルに感じられ、テトの動きやナウシカが仕草に俄然リアリティが生じているのです。
個人的には“うなじ”への視線誘導が「やられた」と感じました。

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ハルヒ:プロアマプロ・・・・・・

レスリングといえば普通はアマチュアレスリングのことですね。最近は吉田101連勝とか女子のほうが話題。
これに対してプロレス。これはプロのレスリングでは全然ないことは皆さんご承知のとおり。遺恨がどうのアングルだセメントだと格闘技とは別の楽しみ方があるらしい。よく知らんけど。

で、アマプロレス。大学などのプロレス同好会などがそう。プロレスの技とエンタテイメントの妙を模倣したもので学園祭などではそれなりの人気そうな。

でもってこれが商業化したものとして、プロアマプロレスというものがあったりします。長州小力やアントニオ小猪木の興行なんかがそうで、これは芸人の余興から発展したものらしい。HGやインリン、挙句の果てには和泉元彌までの芸人レスラーを揃えているハッスルなどもこの範疇ですね。

この変遷(というか発展)の本質はアマ/プロということではなく、マスメディアのあっちとこっちの往来によるカテゴリーの変質にあります。ようするにドラマでもショーでも格闘技でも、コンテンツの送り手の意図と受け手の楽しみ方はちょっとづつずれてるものであって、それがフィードバックされて新たな分野が生み出されるていくことは多々あるな、ということです。

随分長くなってしまいましたが以上前フリ

複数のグループが実写で「朝比奈ミクルの冒険」を撮影している(後天性無気力症候群)
あれを再現しようという人が出てくることは想像もしてなかったです。いやあ頼もしい。

「朝比奈ミクルの冒険」は、いわゆる戦隊物の自主制作の劇中劇でありますが、単なる自主制作というだけでなく、

ヒーロー戦隊もの

戦隊物パロディの自主制作:愛国戦隊大日本

それへのオマージュ自主制作:怨念戦隊ルサンチマン (山本寛監督)
(色々な分野のネタとりこみ)

「朝比奈ミクルの冒険」

という流れがあるわけで、これの先に

自主制作実写再現版:「朝比奈ミクルの冒険」

となってるところなどは、まさにプロアマプロ・・もしくはメディアのあっちとこっちの往来によるコンテンツの発展そのものです。
「大日本」や「ルサンチマン」はマニアの間ではそこそこ知られていましたが実際に見たことある人は限られていました。しかし今はYouTubeがあります。あっちとこっちを隔てるメディアの間口は巨大になりました。両側からのフィードバックは桁外れに強化されています。これはハルヒダンスの派生映像や各種MAD映像でも明らかです。

これらのムーブメントは必ず向こう側にフィードバックして新たなコンテンツカテゴリーを生むでしょう。楽しみです。
#もっともこれからの「あっち側」は、もう旧来の送り手であるTV等メディアとは限りませんが。

それはさておき、実写版のどんな出来なんですかねぇ。技術を駆使して徹底的に再構築された低クオリティを実写でどこまで再現できてるか非常に興味あります。単なる低クオリティではなく、その再現ですから、これはこれで相当な手間がかかるはずです。
出来はどうあれ広く公開して欲しいですね。そして次の作り手を大いに刺激してほしいものです。

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木曜日, 10月 12, 2006

ハルヒ:不描之描(例えばEDダンスの場合)

人は文章や映画などを見るとき、書/描かれていることだけでなく、むしろ書/描かれていないものを積極的に認識し補完しようとします。


これ、エンディングダンスシーンの「Boooon」の動作のひとコマですが、どのタイミングのところかわかりますか?

大抵の人は最後のちょっと前あたり、Boooonの“n”の直前あたりという印象を持つのではないでしょうか。

実はこれ、このカットのラストの絵なんです。
ダンスシーンでは、伸び上がる動作がもっと上までいって形としてフィニッシュまでいってたように記憶してませんか?
ところが絵を見る限りでは、足の感じはちょっと不安定だし、手も上まであがりきってないし、視線移動もまだ途中で、明らかに動作はフィニッシュしていないように見えます。

エンディングのカット割では、曲のリズムの区切りの直前でこのカットをおわらせ止絵につなげています。この微妙なタイミングと動作の不足によって、見ている側はポーズのフィニッシュを脳内で補完させています。なまじ元の動きがいいために途中で動きが切られても感覚が補なうため、受け手が望むもっとも可愛いカットによるフィニッシュとなっているはずです。

ダンスの前半部分は、このような細かいカット割りと止絵を組み合わせて、密度の高い動きを視聴者に印象づけ、かつ、「ダンスをまとめて観させてくれ!」という飢餓感をあおっています。「地球の果~てまで♪」「あっそっぼぉ♪」のダンスの部分も単に細切れにしているわけではなく、フルショット、アップ、俯瞰+広角、といった種々の構図をとりまぜて、見る側の補完機能をフルに稼動させています。
そして終盤は5人のダンスを完璧に見せてくれて、ああ、いいもん見せてもらったご馳走様、となります。実に視聴者の心理を煽るうまい構成でしょう。

いわゆるハルヒダンスの影響力のすごさは数々のダンス映像からもわかるわけですが、これもこの構成の妙によるところが大きいと思います。


で、いよいよダンスの完全版がアナウンスされたわけですが、

『涼宮ハルヒの憂鬱』エンディング「ハレ晴レユカイ」完全版、DVD最終巻映像特典として収録決定
DVD最終巻「涼宮ハルヒの憂鬱 7」の映像特典について

これ、公開された絵コンテのままだと単に振り付けをなぞっただけで、振り付けの参考にこそなれ元のエンディングのようなインパクトはないと思うんですよね。2~3回みればもういいかな、ってなってしまうのでは。ただでさえ、自主的な振り付け動画が先行しているのですから、京アニの維持にかけてファンの期待を上回る映像を作って欲しいです。

ここは是非ともDVDのマルチアングル機能を使って、
・ライブアライブばりのカメラワーク版、と
・正面固定カメラ+アップ少々
という構成にしてくれないかな。

#あと、本家、絵コンテシンクロバージョンも是非

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月曜日, 10月 09, 2006

選挙2.0β

参院選:「1票の格差」5.13倍は合憲 最高裁
1票の格差2.18倍 衆院選有権者数

選挙のたびに繰り返されるこの「1票の格差」、定数や選挙区をちょこちょこと修正してもそう簡単に縮めることはできません。

そこで発想を変えてみる。

議員ひとりの議決権って別に1票じゃなくてもいいんじゃない?

そう、得票数に比例させるの。東京などの人口密集地の当選議員は1.5とか2.0議員相当になり、島根だったら0.4議員相当とかにしてしまう。これで一票の格差は事実上ゼロ。完璧。
多数派工作とかも単純な頭数だけでなく端数の積み重ねの戦いになるな。地方はもともと人口少ないわけだから、頭数をそろえねばならなくなるので、中央VS地方という構図になるかな。もしかしたら地方は発言権を強化するために対立関係を一掃して99%獲得などというどこぞの独裁政権のような得票で中央へ進出してくるかもしれない。


具体的な数値を衆議院で考えてみる。有権者は1.03億人(意外に多いな)、小選挙区300人(2005衆院選)だから34.3万人得票で1.0議員になる。
どれどれ2005年衆院選の結果でみてみると・・・・・

東京6区ででトップ当選 136,750  → 0.398議員相当
徳島1区でのトップ当選  68,026  → 0.198議員相当

・・・・・そうだった。50~60%だし死票も半分ぐらいあるだろうから当選者全体の議員相当数集めても1/4程度の75名分くらいしかないのだな。

「今回の衆院選の結果、議員総数は74.23人となりました」なんてニュースになったりして。

まあ、これはこれでいいかもしんない。投票率の低い地区はそもそも発言権少なくなる。
それに当選した議員全体で有権者の2/3以上の得票集めないと絶対国民投票とかもできないわけだし。


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木曜日, 9月 28, 2006

かけ算1.1

はてブ界隈でかけ算ハック(かけ算2.0)が流行っているようなので乗っかってみる。

・特定のパターンで簡単に計算できるというTips

2桁どうしのかけ算で、
・4つ数字のうちそれぞれ2つが、同じ数字、と、足して10 という場合は、
10の位の掛け算+同じ数字⇒上2桁
1の位の掛け算       ⇒ 下2桁
となり、繰り上がりの処理が不要となる。

例えば
・47×43=2021     ( 4×4+4 =20 | 7×3 =21 )

1の位が同じ数字でも同様
・34×74=2516 (3×7 + 4 = 21 | 4×4=16)

こんなんでもOK
・37×44=1628   (3×4+4=16   | 7×4=28)


原理は簡単で
(a×10+b)(c×10+d)=ac×100 +(ad+bc)×10 +bd
例えばa=b,c+d=10ならば第2項はa(c+d)×10=a×100
となり第1項の上2桁の計算に足せばいいことになる。
他の場合も同様。

この手法は、
15かける15=22
75×75=5625 
といった1の位が5である数の2乗計算という結構有名なTipsがもとである。
それをちょびっと拡張したものだが意外に知られていない。もっともこれが使えるのは(0を含まない)2桁掛け算のうち数%ぐらいだから役にたつケースもそれほど多くはないのだが。

実は、37×34など微妙にパターンからずれている場合でもまあ対応できる。

37×34=37×(33+1)=1221+37= 1258 
という感じ。感覚的には
・3×4=12 を確定してまず12と書く
・7×3=21を求めてそれに37足して58
・繰り上がりがないので、そのまま12につづけて58を書いて終わり
(もう少し簡単な手順を かけ算1.11 に補足)
実際にやってみると意外に簡単。ここまでできれば結構カバレージがあるので(15%ぐらいかな?)検算用のテクニックとしても有効なので覚えておいて損はないと思う。
#さらに1の位の合計が12になる場合や、10の位がひとつずれている場合もちょっと工夫すれば対応できるけど最初から素直に計算するのとどっちが得かは人それぞれであろう。


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日曜日, 9月 24, 2006

めちゃイケにもハルヒねたが?!

めちゃイケ秋特番、恒例の抜き打ちテストの予告をやってたんですよ。この企画、参加者をどうやって騙して会場に連れてくるかの仕込みも見所のひとつです。
で、今回の予告映像を見ると、なんと!、みんなレモンを持ってポーズしてたとこで騙されたことに気がつく、という仕込み。

おお、これは「涼宮ハルヒの憂鬱」DVDの
限定版いとうのいぢ版イラストのレモン持ちポージングのネタか?????????






んなわきゃーない


参考:涼宮ハルヒの憂鬱 DVD限定版ジャケットとザテレビジョンのレモン

ザテレビジョン(ザ・←ではないらしい)の表紙写真でスニーカー文庫とで角川つながりだったのね。そういえば、この「ザテレビジョンの表紙写真では必ずレモンを持っている」はトリビアの泉でもネタになってたな。

今回のめちゃイケのネタは参加者を秋の新番組(または特番)でのザテレビジョンの表紙撮影という騙しなんでしょう。もしかしたらウソ番組をでっちあげてるかもしれん。
今回は10周年ということで往年のツワモノを揃えてのようでちょっと楽しみ。

#めちゃイケの“おかレモン”のキャラがこれがらみだったとは知らんかった。


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ハルヒ:季刊エス16 涼宮ハルヒの憂鬱 山本寛インタビュー

季刊エス 16,2006 Autumn 10月号, p.70-77
 涼宮ハルヒの憂鬱 山本寛インタビュー
 山本氏演出、特に「(放送)第12話 ライブアライブ」を中心に紹介

「ライブアライブ」が映画「リンダリンダリンダ」との関係に答えたものがありました。関係者からの「リンダ…」に言及したものは初めてみました。その部分の要約。#は私のコメントです。

・「リンダ…」公開(2005/7)の前に構成会議で「ライブアライブ」をやることは決まっていた。
・「リンダ…」のチラシをみて「ライブ…」とそっくりであることを知り観にいった。
・どうせ“似ている”といわれるのはわかっているから積極的にオマージュとして(リンダ…を)取り入れた。
・作品に共感を得るには、作り手と受け手に共通の体験やイメージがないと不可能と(山本氏は)考える。
・雨のシーンは観客を入れて(さらに視聴者をも)盛り上げるため。意図があり、ただ真似ているだけではない。
 この後は、コピーとオリジナリティの考えなど。

#観客の盛り上りは、2つの作品ではっきりした違いがあります。「リンダ…」では、しょっぱなの“リンダリンダ~♪”のところで一気に盛り上がりますが、これはバンドの曲で盛り上がったというよりは、みんなが共通して弾ける曲だったという感じです。まあどのバンドがやっても同様だったろうですけど楽しく盛り上がってよかったね、という感じ。これが始まるまでの前の曲が「ふうーらーいぼー」とか、のどかなのが続いてたのも盛り上がる要因だったのかもしれません。エンディングに向けての強いコントラストになっていると思います。
#一方「ライブ…」では、「なんだあいつら」という戸惑いから、長門の超絶技巧のイントロで見る目が変わり、どんどん盛り上りが高まっていく感じが、躍動的なカメラワークともあわせて表現されています。サビの転調のとこなんか何回みてもゾクゾクきます。
#「リンダ…」は受け手の経験から共感を揺り起こすことを意図したシンプルな演出で、「ライブ…」は、バンドの演奏を強烈にアピールする演出であり、まったく異なったものであるといえるでしょう。

その他、インタビューからいくつかピックアップ(要約してます)
Q.「うる星やつら」のムードに近い感じがしますが?
A.多分に意識はしているが、(うる星とは違って)日常の描写をしっかり描いた。マンガっぽくなんでもありは避けた。
Q.9話(サムデイ イン ザ レイン)について
A.キョン一人称をはずした場合の視点として「観客」の視点を避けるために監視カメラ風の映像とした。コンピ研が設置したという設定を匂わせている。アングル固定だと常に全身での描写が必要で非常に大変であった。(上半身アップなどとすると下半身は省略できる)
#なるほど。長門が本を動かしてみくるの着替えシーンをさりげなく隠すのは、カメラの邪魔をするだけでなく、スタッフへのアシストでもあったわけですな。
Q.ハルヒが戻ってからの情緒的な音楽も印象的ですが?
A.ハルヒのデレデレっぷりを演出したのだが、谷川氏の脚本があまりにデレに振れていたので、最後の相合傘を渡す時は目をそらさせて少し戻しておいた。
Q.12話について
A.音楽シーンをいれたくてやることにしたが、後になって「この回は、ハルヒが自分の姿勢に動揺するという話なので、それまでの11本で破天荒さを充分に描けるだろうか」と気がついて「しまった」と思った。次のシリーズがあるのならそれまで出さないほうがよかったかも、と思った時期もあった。
#結果的に充分成功していて、特に話数シャッフルが効いていると思います。DVDを順番に観ている「憂鬱」の6話は思いの他、すんなり話がまとまっていて、この感じで時系列で12話までいったとしてら「ライブアライブ」の回の印象は随分と違ったものになるような気がします。
Q.文化祭では群集や一般生徒も細々描かれていますね。
A.文化祭は全員が主役で、全ての生徒がSOS団的な面白い瞬間を味わっているということです。文化祭を描いたアニメは多々あるが一般生徒を動かしたことはなかったので手は抜きたくなかった。動画枚数は倍になった。
Q.手前のメインの芝居の後ろで別の人たちが存在している。
A.「踊る大捜査線」でも後ろの芝居が別のストーリーとなっている、というのに影響を受けた。
#「踊る…」では全ての役者・スタッフが劇団のように話をつくっていくようになっていった、という話を聞いたことがあります。後ろでやっていた何気ないアドリブでも、それをみんなが膨らませたり、小道具(レインボーもなか、とか)についても、あれやこれやとアイデアを出し合っていったらしいです。
Q.演奏シーンの作画は?
A.ハルヒはリップシンキング。演奏シーンはプロの演奏ロトスコープを使った。ハルヒの顔は平野綾のレコーディング時の映像をもとにアニメーターが一から起こしなおした。
#「きずあとなぞる~」のシーンの原画とタイムシートが紹介されてます。

他にも、ライブアライブの絵コンテ・原画がいくつか紹介されています。

火曜日, 9月 19, 2006

映画:リンダリンダリンダ

(犬井ヒロシ風にお読みください)

リンダ×3のブルース
リンダ×3のブルース 聴いてくれ

こないだ、「リンダリンダリンダ」っていう女子高生が文化祭でバンドをやるっていう
いわゆる青春映画を観た後の話なんやけどぉ~

ストーリーや出演者や演出にめちゃめちゃ共感して
   神映画である
と全人格をかけて絶賛するのか~

それともぉ~

シネフィルきどった古臭い映画センスの作品が世にはばかるのは我慢ならんと、自らの映画センスに賭けて
カットを割らないでダラダラ撮り、奇妙な「間」を生み出すことが、あたかも「作家的」と思われる傾向が、この国にはあるが、これは、ただカット割りの技術すらない素人同然の演出で、金取って見せてはいけない代物だ。
と全否定するのはぁ


自由だあーーー!!!!

リンダ is freedom ♪ リンダ is freedom.♪
(繰り返し)

けどぉ、掲示板で相手のレビューの否定をすると大炎上になるから、アップするのは自分とこのブログだけにしといたほうが、ええでぇ。

チャラチャ チャッチャーン






はい、微妙な売れ筋のお笑いネタで、数少ないリピート読者までも置いてけぼりにしたところで、映画「リンダリンダリンダ」(以下、リンダ×3)のレビューです。
 関連エントリ: ハルヒ:検証 ライブアライブとリンダリンダリンダ
         ハルヒ:ライブアライブとリンダリンダリンダ


総評:製作・監督・脚本・役者・配給の意図と個性が奇跡的に融合して生まれた青春映画。

この作品、好き嫌いがわかれる映画だろうなあと思ったら、やっぱり賛否真っ二つ。意外だったのは賛成のほうがかなり多かったこと。例えば映画生活の採点分布。普通は好評な作品で80点あたりをピークに山がた分布でしょう。ところが「リンダ×3」では100点と0点を極大にした谷がた分布です。しかも圧倒的に100点側に触れている。好きな人は好き、嫌いな人は嫌いというカルト系作品に良く見られる傾向ではありますが、そうゆうのってマニア受けですから、全体で「好き」の側が優勢って珍しいですね。

では何故に好き嫌いが分かれるのかというと、作品に散りばめられた要素が観客の感情にポジティブフィードバックをかけてくる作りになっているからなんだと思います。だから共感できる要素を見つけられる人には、どんどん作品が「自分にとってリアル」になってくるという好循環、逆にだめな人には、要素の全て、特に演出面が駄目駄目になってしまうという悪循環を生み出すのでしょう。

つまりこの作品は骸骨みたいなもので、観客が共感によって自分向けの肉付けをすることによって各々の傑作に昇華されているものなのでしょう。幅広く、如何様にも肉付け可能な骸骨を実現したのは徹底した脚本の削り込みと監督の演出の賜物でしょう。そしてその骸骨に観客の感情を共感させることを可能としたのは4人の女の子達の存在感と空気感に拠るところが大きいと思います。

もう本当に絶妙なタイミングで集結された企画と才能によって成立したとしか思えない稀有の作品でしょう。

まとまりがつかないので、後は雑記でお茶を濁します。


私の好きなシーン:夕方、スタジオから学校への帰り道、4人が川沿いの堤防を楽器を担いで連なって歩くところです。風景を広く捉えた俯瞰から4人の歩みをフォローで追いかける。黙々と、しっかりと、等間隔で歩いていく姿。
絵として綺麗とかリアルかどうかとかでもなく、具体的なシチュエーションが思い出せるわけでも言葉にできるわけでもないんですが、確かに高校生の時のどこかの風景のひとつなんですよ。


演出関係トリビア(内容に触れますので未見の方はご注意を)
 後半部の夢のとこ(サプライズで“大きい手のプレゼント”をもらったり、武道館(どこのだ(^^; )に立ったりするシーン)、好評価の人にも「蛇足だ」とか「わけわかんない」とか言われてるんですが、実はここのシーケンスは結構ひねくれた演出がなされており、解釈の余地があるんですよ。

シーケンスのおさらい。
(1)スタジオでの最後の練習中、恵ウトウト
(2)目を覚ますためにトイレに顔を洗いに行く
(3)ソンも来て会話をかわす。「バンドに誘ってくれてありがとう」
(4)トイレから戻ると元彼がギターでお出迎え
(5)お母さんがケーキまで持ってきてサプライズパーティーだ
(6)元彼からのプレゼント“大きな手”

(7)シーン学校 「先輩達どこいったんだろう」

(8)恵ステージ(武道館!?)に立つ。ピエールさんたちも来てくれた
(9)携帯の着信音でようやく目をさます。


これ、少なくとも(8)のところで夢であること気づくのですが、ひねくれたことに(7)の現実のシーンをはさんでいるために、どこからが夢の始まりか溯り難くなっているんですよね。正直言って、私も(8)でようやく、なんだあ夢かあ、気がついた口です。
じゃあ夢が始まったのはどこからかなと考えると(2)のトイレのシーンから、と考えるのが一番素直なんですよね。トイレの照明がホワイトバランス設定間違えたみたいに緑色なのは違和感をかもし出す意図的なものでしょう。ということは、ソンの感謝の言葉のやりとり、も夢の中のことなんですよね。そもそも晩御飯の時には韓国語通じてなかったし。
これ以降にも“夢”の違和感は織り込まれています。
・(4)元彼。お、いつのまに。ちょっとケレンミがきつすぎないか
・(5)サプライズ。あれ?このスタジオ学校から遠かったよな。なんでお母さん?家は近いの?それになんのサプライズ。誕生日か?違うの?何?
・(6)“大きな手”のプレゼント。 おいおいシャレじゃないの。一瞬ひくだろう。そんなに感動するとこか。そもそもそれつけてギター弾けるのか。なんで誰もつっこまないの。

気がつけばこのように夢の伏線はちりばめられているのですが、監督はあえて(7)の学校のシーンを挿入して夢のシーケンスを分断しています。これにより時間経過による緊迫感を表面的に持たせつつ、実は意図的に夢の開始点をぼかしています。これは観客に解釈の幅を持たせるためでしょう。実際、レビューの中には、ソンと恵が感謝しあうシーンがよかったと言っている人もいます。それもありなんでしょう。可能な限り観客の解釈を許容して、観客の共感の度合いを強化できる構造になっている。これがこの作品の強みなんだと思います。

レビュー大炎上
最初のネタ中の批判は、なかなかの激論に発展しました。はたから見てると面白いです。結構参考にもなるし。ただ、どっちもどっちで、スネークマンショーの音楽批評バトルのねたを思いだしてしまいました。

月曜日, 9月 18, 2006

平井ケンジのルーツ

平井ケンジ。スケッチブック芸の発展系であるが、ある意味グルっと回ってルーツに戻ってるんだよねえ。

Bob Dylan - Subterranean Homesick Blues


#あ、ちょっと無理ムリでしたか・・・・・・

おまけ:
Youtubeで並んでたアル・ヤンコビックのパロディ
(マイケル・ジャクソンのパロディPVなどが有名)


これ歌詞がひたすら回文がならんでいるだけで、そのためにフリップをめくるというスタイルのためだけにボブディランのパロディになっているという。
ちなみに回文って「しんぶんし」「たけやぶやけた」とか
「なんてしつけいい子いいケツしてんな」みたいに逆から読んでもいっしょの文のことね。
A TOYOTA'S A TOYOTA. とか UFO TOFU とかがシンプルすぎ (^^

あ、これも「レム色」のルーツだわな

日曜日, 9月 03, 2006

ドラマ:香椎さんギターきたぁ!

今晩(9/2)のマイボス・マイヒーローは学園祭ネタ。クラスでビッグバンドとな。
で、鉄仮面こと南先生(香椎由宇)がさらっとギターを弾くシーンが。

「高校の時バンドでギターやってたの」
先生、芝崎高校出身でしょう。

ワンフレーズだけでしたけどそれなりに弾けてましたね。それにしても、去年高校生で今先生かあ。
#なにげに「熊井ラーメン」という「ごくせん」ネタがあったりしたのもご愛嬌。

木曜日, 8月 31, 2006

ハルヒ:「さまさせせん!!」 伝説の始まり

こんなマイナーなサイトでも検索で訪れてくださる方がそこそこいらっしゃいます。キーワードのメジャーどころは、

ハルヒ ライブアライブ リンダリンダリンダ 12話 超監督


あたりです。じつは長門由紀が上位にあったりするのは・・・・・・・・うかつ。
#8/31現在 googleでは、62中1位だった・・・・・・・

で、先日いらした方の検索キーワードがなんと、
「さまさせせん」


これ、NewTypeのインタビュー記事の引用の中の後藤邑子(みくる)の神業のセリフ

「イツキくんを、あなたのおもりじょうりにはさまさせせんっ!!」


へのヒットです。何を探してたんですかね(w。確かにインパクトのあるセリフです。想像するに、これは脚本通りなのかアドリブなのかを調べてたのでしょうか。たぶん“神業”と言われているからには脚本では想像だにしなかった声優さんのアクトなんでしょう。
(ちなみに“おもりじょうりには”でも同様にヒットします)

でもって私も検索してましたら、他でも同じ記事を引用してるとこがいくつかありました。もともとインパクトのあるセリフなんですけど、記事として文字になったのが影響してるのだなぁ、と思ったら、
実に放送初日の実況版にて“さまさせせん”の書き込みがあるじゃありませんか!!

1039 名前:名無しになるもんっ♪ :2006/04/03(月) 00:07 ID:???
噛んでる(ノ∀`)アチャー

1040 名前:名無しになるもんっ♪ :2006/04/03(月) 00:07 ID:???
言えてないよ

1041 名前:名無しになるもんっ♪ :2006/04/03(月) 00:07 ID:???
言えてないw

1042 名前:超夢銀漢王 :2006/04/03(月) 00:07 ID:???
さまさせせん

1043 名前:名無しになるもんっ♪ :2006/04/03(月) 00:07 ID:???
噛んでないよー

1044 名前:名無しになるもんっ♪ :2006/04/03(月) 00:07 ID:???
かんでる

1045 名前:名無しになるもんっ♪ :2006/04/03(月) 00:07 ID:???
いえてない

1046 名前:名無しになるもんっ♪ :2006/04/03(月) 00:07 ID:???
噛んでないよ

1047 名前:名無しになるもんっ♪ :2006/04/03(月) 00:07 ID:???
なにを言ってるんだ?w

1048 名前:名無しになるもんっ♪ :2006/04/03(月) 00:07 ID:???
さばさせせん      ←惜しい


おそらく「超夢銀漢王」氏は世界で最初に「さまさせせん」を文字にした人でしょう。自慢にしてもいいんじゃないですかね。

今あらためて実況版を読むと放送しょっぱなは、少なくとも掲示板の雰囲気はドン引きだったようです。もっとも原作既読組または演出意図にはまった組は放送に狂喜乱舞してて掲示板どころではなかったのかもしれませんが。少数ながら「イマジナリーラインが」とか「センターずれてる」とかのコメントもありましたが、これがアニメでやっていることの意味を気づいていた人はさらに少数なんでしょうね。逆にそれを気づかせないほどのクオリティだったということでしょう。そんでもって、EDでハルヒダンスがすごいことになったあたりで俄然掲示板の雰囲気がかわります。

私はネットで放送第1話の評判を知ってから追っかけ始めたので、残念ながらこのポカーンの状況をリアルタイムで楽しんでません。1話終了直後は賛否わかれましたが、この時を共有してた人たちは間違いなく歴史の目撃者だったわけですよ。ほんと、うらやましいです。

ログを読むと当時の雰囲気をちょっとだけ追体験した気になりました。

火曜日, 8月 29, 2006

ハルヒ:涼宮ハルヒの公式 (賀東×谷川)

(2007.3.7追記  “賀東昭二 ブログ”で検索されていらっしゃる方多数ですが、
  賀東招二が正解です。ごめんなさい。
  賀東氏のブログはこちらです。⇒ GATOH.COM blog style




オフィシャルファンブック「涼宮ハルヒの公式」が届きました。
巷の評判は上々で、例えば先行してレビューしている なつみかん。では、

むしろDVDを買うようなコアなファンにこそ、アニメ版「涼宮ハルヒ」をより深く理解するための必読書としてオススメしたい。

と一押しです。
確かに1200円(税別)でこの内容ならば文句無しで買いなんですが、
個人的には正直いって物足りないです。制作側から発信できる情報は、まだまだこんなもんではないでしょう。設定資料や関係者取材ノートで全頁埋めてくれたら4倍払ってもいいです。

この「公式」で、制作に関する1次資料が終わりだとしたらものすごくもったいない。どうか、徳間書店やジブリをみならって、コアなファンの財布を絞りきるぐらいの資料放出をしてもらいたいもんです。貢ぎますとも、状況が許す限り。

ただし、同じような内容を増補や完全版みたいにしてくるのは勘弁して欲しいですね。

今回の「公式」中の記事“賀東昭二賀東招二×谷川流 対談完全版”は、

「ザ・スニーカー(2006/8)」収録の
“「賀東昭二賀東招二×谷川流」対談 涼宮ハルヒ―その全て。”

の完全版で、

賀東昭二賀東招二×谷川流」対談完全版 「涼宮ハルヒ―その全て。」の全て。

だそうです。

・・・・・・・まあ、今回は騙されといたろか。




参考までに完全版との差異は以下:※太字が増補分

 朝比奈みくるの誘惑
 計算の上に築かれたメチャクチャさ加減
 「ハルヒ」の中には偉大な作品の血が?
 小説と脚本の違い
※キョンと古泉は禁断の関係!?
※字数制限を死守せよ!1文字を巡る攻防戦
※小説になくてアニメにはあるもの
※京アニのスタッフは平野綾にデレデレ?
※涼宮ハルヒは女性の好感度高し

 キョンの本名があきらかに!?
 実現なるか?夢のコラボ企画
※SOS団の次なる活動予定は?
※対談の終盤はなぜかガンダム談義に


#まあ、ざっと2倍ぐらいになってるから良心的なのかなあ・・・・・まだまだ後出しされそうな気が。

火曜日, 8月 15, 2006

ストロベリー・フィールズ・フォーエバー

なにげにドラマ「相棒」(テレビ朝日)の再放送を観てたら、この回のエンディング(と劇中)にビートルズの“ストロベリー・フィールズ・フォーエバー”が使われていました。

第2期 第17話 「同時多発誘拐 消えた16人の子供達」(2004年2月18日)(相棒-Wikipedia)です。
この曲はジョンレノンの故郷にある孤児院のStrawberry Fieldをモチーフにしたものだ、というのはビートルズファンには広く知られていることなので、それを知っている人にはこのエピソードにこの選曲はしっくりくるでしょうが、一般にはどうなんでしょう。なんか非常に違和感のある選曲のような気がします。
たぶんDVD化ではこの曲は使えないでしょうね。そのためか、曲をカットするか別の曲に置き換えてもいいようなつくりになっているような印象を受けました。

もしかして、ストロベリー・フィールドの閉園の報を聞いたディレクターが孤児院繋がりのこのエピソードにおいてメッセージをこめてこの曲をつかったのかな? 
 ・・・調べてみたら閉園は2005年6月。放送はその1年以上前でした。違うじゃん。

しいて言えば杉下警部がイギリス帰りってとこぐらいでしょうか。けど、紅茶好きということ以外、これといってイギリスやビートルズがらみの仕掛けは特にないですから、やっぱこの回だけの思いつきなんですかねえ。

相棒シリーズ全体のトーンから逸脱するようなお遊びでしかないみたいで、ちょっと不満。

誰が為

2004年春、あるCMの放映が開始された。

「No Border No.1(国境編)」



中東を思わせる荒野 そこに国境を思わせる地平線まで連なる白い線

その両側で対峙している 険しい表情で睨み合う大人達の列

何故の諍いなのだろう 歩み寄る糸口も見えそうにない


そこに笑顔の少女 大人達の足元から白い線へと歩み寄り、

線のカケラを拾い上げる それは食べ物だった

表情が和らぐ大人達 

交互に線のカケラを拾いあう

カケラを食べて心安らぎ皆に笑顔が戻る

そして

そこにはもう白線はない

NO BORDER



誰もが覚えているであろう、日清カップヌードルのCMである。

Mr.Childrenの「タガタメ」をバックに綴られたこの作品は、911以降の国際情勢に向けられた強烈なメッセージであった。このCMのインパクトは今でも色褪せていない。
それどころか暗い局面に進みつつある今のこの世界にこそ、改めて発せられるべきメッセージを持っていると思う。


「戦いがいけない、やめなくてはいけない」それは望むらくはその通りであろう。
しかしすでに戦いを始めたものたちにとっては もう、
戦いの是非は考慮の対象とはなりえない

そうなる前に考えねばならない 

本当に戦わねばならぬのか 
そもそも 戦う理由など 本当に 存在するのか

なにか あたりまえの 
こどもにでもわかる かんたんなことを
わすれているのではないのだろうか

それは

もしかしたら

少女が笑顔で拾い上げられるような

どこにでも

だれでもしっている

そんなものではないのか





戦争を知らない世代という言葉がある
そんなのは嘘だ

いまだかつて戦争が無かった時代なんて存在しない

まさに今われわれは

明らかに戦争の中に生きている

傍観者なんかでは決してない

   8月15日 忘れてはいけないことを心に刻み込む

月曜日, 8月 14, 2006

ハルヒ:Newtype ’06/9 石原・山本・平野インタビュー

読みたいところは実質4ページ分もないのだけども・・・・ついつい買ってしまいました。
(などと言いつつ買ったら買ったで結局隅々まで読んでるんですが)

目にとまったところをいくつかピックアップ(#以降は私のコメント)

Q:お気に入りの映画は?
 石原:「サイレント・ランニング」「世界が燃え尽きる日」「カプリコン・ワン」
 山本:(今の気分なら)「ニュー・シネマ・パラダイス(完全版)」「パッチギ!」「台風クラブ」

#石原監督は70年代の終末系のSFが好きなんですね。「ソイレントグリーン」や「赤ちゃんよ永遠に」が漏れているところをみると、終末系の中でも希望が残るタイプをチョイスしているのかな。
#山本氏のチョイスは、いわゆる映画っぽいところ。「台風クラブ」は「リンダリンダリンダ」に通じるところがあり「ライブアライブ」への影響を想像させますな。

Q:好きな映画監督は?
 石原:ジョン・バダム、ピーター・ハイアムズ
 山本:(今の気分なら)D・W・グリフィス、W・ベンダース、候孝賢

#バダム作品は「ウォーゲーム」のあたりでしょうか。好きな作品群とちょっとカラーが違うような。
#ベンダース・候孝賢は小津レスペクターの代表格ですねえ。小津が直接出てこないところに、山本氏の映画演出へのスタンスが感じとれるような印象を受けます。小津構図の推測は案外的外れじゃなかったかな。それにしてもなんでまた「今の気分なら」で「映画の父」グリフィスなんでしょう。次回作への映画技法研究に余念がないのでしょうか。実は2話でいわゆる「イントレ」のカットがあるんですよ。これについてもいずれ触れなくては。

Q:これは名セリフ!と思うセリフは?
 山本:第1話「イツキくんを、あなたのおもりじょうりにはさまさせせんっ!!」。神業です。
#観かえしてみましたら確かにこうでした。アドリブだとしたら確かに神業ですね。(^^;

Q:キャラのしぐさやポーズで、いちばんのお気に入りのものは?
 石原:オープニングのヤケクソぎみのチアみくるですかね。
#このカットのみくるの胸のはずみ具合、特に左右の動きがずれるあたりがハルヒにくらべてグラマラスであることを端的に表現されていてすばらしく、どうせなら長門のペタペタもどうにか表現して欲しかったですが趣味に走りすぎてますかそうですか。

Q:もし、2期があったら、参加してみたい?
 石原:安易に「やってみたい!」なんて言ってしまうとさまざまに誤解されるファンの方もいらっしゃると思うので・・・。いろいろなタイミングが合えば・・・というところでしょうか。
 山本:ご縁があれば、ですかね。

#意志があっても色々な条件が揃わないと難しいんでしょうね。プロデュース側には是非とも、京都アニメーションのクオリティを最大限に発揮できる条件を十分に揃えてからGOを出していただきたいものです。

☆平野綾 ハルヒを語る!!
Q:収録でいちばん苦労したのは?
 平野:「ライブアライブ(12話)の収録です。前々から「この回でハルヒが決まるので頑張ってください」って言われていて、ただでさえ緊張しているのに、すごくプレッシャーをかんじていました。

#12話は放送順でも構成順でもハルヒのキャラクターが決まる非常に重要な回ですね。これは脚本・演出・作画に加えて声優の演技があってはじめて実体化するわけですから、最後までスタッフの誰にも予測がつかなかったんでしょうね。

(中略・続き)
 平野:(ライブシーンの曲は)1曲通して歌いました。心にグサっとくる勢いを出すのに苦労しました。特に「God knows…」の最後の転調が、最初なかなか思うようにいかなくて、歌い込みました。

 エピソードベスト3 「ライブアライブ」
 平野:ライブシーンでは私の歌うときの癖を全部ハルヒが表現してくれていて、最初見たときは驚きました。

#最後の転調のとこは今観てもゾクゾクっときます。歌・作画・演出とも命削ったというのは決して誇張でないと思います。ハルヒの歌うシーンは平野綾の歌唱シーンから忠実に起こしたものなんですねえ。HEYHEYHEYでの映像ではそんな印象なかったですから、これは作画の元になった映像を是非みてみたいです。DVDの特典映像に入らないかなあ。
(9.2追記 DVD涼宮ハルヒの憂鬱2:憂鬱Ⅲ・Ⅳ 限定版は朝倉さんがレモンを持ってるやつ  映像特典のメイキングクリップは Lost My Music のレコーディング風景が入ってました。力をこめて歌うときの表情などがライブアライブのハルヒの作画に似たところがあり、確かに参考になっているようです。次の映像特典はGodKnowsの収録風景を是非!あと、ギターとドラムも)
 

金曜日, 8月 11, 2006

「涼宮ハルヒの憂鬱」関係エントリまとめ

ハルヒ関係の記事が散乱してしまっているので、簡単なまとめ。
#ハルヒのまとめサイトを検索して来た方のために外部リンク追加

外部まとめサイト
[サブカル論]テレビアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」適当なまとめ:web上における批評・論考のリスト
   資料的情報はここに一番網羅的に収集されている。随時アップデート中

当サイトの記事

 ハルヒ12話「ライブアライブ」におけるカメラと視点 (2006/06/24)
 ハルヒ:ライブアライブとリンダリンダリンダ (2006/07/03)
 ハルヒ:ザ・スニーカー8号(9話脚本掲載) (2006/07/03)
 ハルヒ:七夕 (2006/07/07)
 ハルヒ:自主映画制作のススメ (2006/07/09)
 ミームとしての「超監督 涼宮ハルヒ」 (2006/07/13)
 ハルヒ:2話 回想と一人称視点 (2006/07/19, 07/30)
 ハルヒ:2話 ローアングルと奥行表現(小津構図) (2006/07/23)
 ハルヒ: 検証 ライブアライブとリンダリンダリンダ (2006/08/08)
 ハルヒ:Newtype ’06/9 石原・山本・平野インタビュー (2006/08/14)
 ハルヒ:涼宮ハルヒの公式 (賀東×谷川) (2006/08/29)
  ハルヒ:「さまさせせん!!」 伝説の始まり (2006/08/31)
  ハルヒ:季刊エス16 涼宮ハルヒの憂鬱 山本寛インタビュー (2006/09/24)
 ハルヒ:不描之描(例えばEDダンスの場合) (2006/10/12)
 ハルヒ:プロアマプロ・・・・・・   (2006/10/15)
 ハルヒ:2話 見た目でのカメラワーク(1)   (2006/11/16)
 ハルヒ:2話 見た目のカメラワーク(2)望遠   (2006/12/12)
 ハルヒ:見た目のカメラワーク(3) フォーカス   (2007/01/27)


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月曜日, 8月 07, 2006

ハルヒ: 検証 ライブアライブとリンダリンダリンダ

ようやく映画「リンダリンダリンダ」観ました。

まずプロットについてですが、『リンダ…』は2005年7月公開、一方『涼宮ハルヒの動揺』は2005年3月31日初版、なお「ライブアライブ」は短編としてザ・スニーカー2004/10掲載つまり雑誌発売は9月で執筆はさらにそれ以前。なので、バンドメンバーが怪我して・・というプロットはパクリではないのは明らかです。逆に『リンダ…』がハルヒを参考にした可能性も、映画制作の期間を考えるとほとんどないでしょうかなり少ないのでは。(追記:ライブアライブの初出のタイミングを考えると可能性はなくはないです)まあ、ありがちなプロットですから。
ただしアニメ制作時には既に『リンダ…』は評判になっていましたから、「学園際、バンド、ギターが怪我して代役」という類似のプロットをスタッフがほっておくわけがないのは必然かもしれません。もっともZONEネタは4人組という以外に必然性がありません。完全に趣味の世界でしょうか。
(補足:山本氏は、ライブアライブ製作決定後に『リンダ…』の公開を知り、プロットが似ているならばいっそのことリファーする、と決めたそうです(関連エントリ)。ですから、まず4人組バンドという設定が優先されている可能性が高いです。)

さて、ライブシーンがパクリかインスパイアかオマージュかレスペクトか否か、について結論から言えば、

『リンダ…』の基本構図を全体的に参照しているが、『ライブアライブ』では
 ・多様なアングルのカット(アオリ・俯瞰・ハンディ)
 ・曲のテンポおよび盛り上りにマッチした編集
 によって圧倒的なライブアクトの躍動感を表現している』

ということでした。
リンダx3とハルヒのなんとか より比較画像


上記画像だけでは「似たようなシーンを選んでるんじゃないの」という可能性もあるのですが、映画をみれば『リンダ…』を参照しているのは明らかです。学園祭映画の傑作へのレスペクトという印象をうけました。

もちろん、単なる参照というわけでは全然なく、この話のライブシーンはこの回の肝ですから演出も気合が入ってます。結局先のエントリで予測した、

特に上記サイトの比較では、前回言及したロー/ハイアングルのカットがありません。あとハンディの手振れのカット。これらは特徴のある構図なので元ネタであるとしたら比較対象になるはずなんですが、これがないということはライブアライブでの独自演出ということになります。(仮にそうだとすると)アニメだと更にここまでできるんだぞ、というスタッフの意気込みが炸裂した挑戦状といえるでしょうか。

は、ほぼ正解でした。違ったのは「挑戦状」という切り口。
というのは『リンダ…』のライブシーンはもともとライブアクトの躍動感を狙ってはいないんですよね。ライブで用いられている構図も映画全体で一貫しているものです。
一方『ライブアライブ』のほうではプロットの要請として、聴衆およびキョン(≒視聴者)をそのライブアクトを強烈に印象付けなくてはならないので、気合の入った作画とカット割りによってそれを実現しています。実際、この回は、スタッフは「スタッフは命を削った」と言っていますが、ライブシーン以外の学園祭のシーンも含めて、ほんとにそうだろうと思います。

あと細かいこと色々。

 上の画像で、共に曲終了後にボーカル(ソン・ハルヒ)がメンバーと順番に視線を交わすシーンがありますが、『リンダ…』では、上記のカットにメンバーそれぞれのカットがはさみこまれます。『ライブアライブ』では、ハルヒが3人と視線をかわす過程はワンカットです。この違いはそれぞれの映画で表現しようとしてる内容の違いが演出として異なってくるかを示していて面白いです。

 下から6番目の「ステージを見る、槙原・キョン」の図。この構図の類似も偶然ではないですね。槙原は訳あってボーカルのソン(ペ・ドゥナ)を見つめているんですよ。腕を組む姿も一緒ですし。この槙原君を演じているのは、画像だとちょっとわかりにくいですが松山ケンイチです。
そう、『デスノート』でエルを演じた彼ですよ。これを踏まええると最近流布したガセネタ「涼宮ハルヒの憂鬱が実写化」(リンク先はガセネタであることを紹介している記事。)の配役

 キョン:松山ケンイチ(21)
 涼宮ハルヒ:新垣結衣(18)
 朝比奈みくる:戸田恵梨香(17)
 長門有希:黒川芽以(18)
 古泉一樹:石垣佑磨(23)


も味わい深いわけで、(w
ちなみに、みくる役の戸田恵梨香はミサミサです。うーむ・・・・
(10.15 追記:アニメ版「デス・ノート」のミサミサはハルヒcvの平野綾。なんか縁ありますね)
個人的には長門由紀長門有希は福田麻由子(女王の教室 真藤ひかる・白夜行 雪穂の幼少時・ちびまるこ実写 お姉さん役・日本沈没)なんですが、まだちょっとはやいですかそうですか。
(09.09追記 youtubeで割と最近の福田麻由子の映像みつけました。 また大人になりましたねえ。もういけるかも)


#『リンダ…』についてはいずれレビューをまとめたいと思います。(こちら)この映画好き嫌いがはっきりわかれるようですが、私は好きです。
#実はこのサイト、キーワードがライブアライブ、リンダリンダリンダで来る人がすごく多いんで、ちゃんと観て比較せねばと思ってたんです。これで期待にこたえられましたでしょうか(w  私としても、そのおかげで『リンダ…』という作品をちゃんとみる機会をつくれてラッキーでした。

土曜日, 7月 29, 2006

小津監督関係 補足

前回のエントリーで小津映画の特徴的な構図の実例を探していて参考になるサイトと映像をみつけました。

小津映画入門


#残念ながらリンク切れ。とっても参考になるコンテンツだったので非常に惜しい。どなたか移転先ご存知でしたらご連絡ください。
 

小津のスタイルとして一番有名なのが、ロー・ポジションのカメラだ。カメラは、あらかじめ決まった位置に据えられて動かない。その他にも小津映画にはさまざまな特徴が見出せる。たとえば、人物の正面撮影、画面の左右対称の構図、人物の並び合うかたちなど。また繰り返しが多いのも大きな特徴だ。ここでは『東京物語』(1953年)を例に、そうした<かたち>や<絵柄>に着目しながら、小津映画の表現を探ってみよう。

特徴的な構図の効果やその繰り返しによる表現についてわかりやすくまとめられています。「東京物語」は予備知識なしで観ても十分に心に余韻が残る作品です。上記の解説にあるような映像演出は、映像文法などの理屈抜きで観客に自然に伝わってくるものなのですね。

もうひとつ
T.M.Revolution 魔弾(YouTubuYouTube)

T.M.Revolutionの曲を小津映画パロディで構成したビデオクリップです。この作品、それなりに評判になったそうですが全然知りませんでした。どうも一般には「昭和中期風日本映画の雰囲気にTM西川の音楽を載せたミスマッチ(そして途中のありえない超展開)が面白い作品」という評価のようです。
しかしこの作品はとにもかくにも小津作品のパロディとして観なければその面白さも半減です。そもそもこれ、パロディの枠を超えてます。オマージュという言葉でも到底足りないぐらいの完成度で、そのまま小津作品の解説のサンプルにしたいぐらいです。
ローポジションのカメラ・肖像画のような人物描写構図・イマジナリーラインにとらわれないカット割など、小津監督の映画と見間違えかねない出来で、その特徴を十分に把握してもらえると思います。上記の小津映画入門で解析されている「不自然に遠回りする人物たち」の、玄関から部屋への人物移動時の独特なカメラ位置とカット割りについても短い作品内でストーリに組み込まれ完璧に再現されています。

このクリップのすごいところは単なるスタイルの借用だけはありません。小津映画の本来のエッセンスまで吸収しており、ストーリ構成および(途中の超展開は除いて)オチにおける本質的なテーマまでも共通です。ものすごい完成度です。
それに加えて、ビートのきいている歌詞を登場人物それぞれに歌わせつつ、その演技はオーソドックスな日本ドラマの表情とテンポのまま、という離れ業までやってます。
試しに音声OFFで観てください。この映像にT.Mの音楽が完全にシンクロしてるとは信じられませんよ。


#だからこそ小津作品の中で「ロ○ット○ン○」が登場するという超展開があるわけですが・・・

##あと、ヒロインが木村多恵(多江)だったのもびっくり。“薄幸美人役を演じることが多いためか、自他共に認める「日本一不幸が板に付く女優」”(Wikipedia)の名に恥じないヒロインっぷりです。

日曜日, 7月 23, 2006

ハルヒ:2話 ローアングルと奥行表現(小津構図)

揺れ画面の前にこのカットについて触れておかねば。


画像出展:DVD 涼宮ハルヒの憂鬱1より

谷口がキョンへハルヒの奇行の数々をかたるシーンです。

・アイレベル(カメラの高さ)が机の高さというローアングル
・他生徒や机上の牛乳パック越しでの3人の構図

これ小津安二郎(Wikipedia)の構図ですよねえ。
以下は東京物語の1シーン
・テーブルの高さのアイレベル
・ふすまや扇風機といった室内のもの越しの構図
といった特徴に類似性がみられると思います。


デジタル小津安二郎: 建築家としての小津安二郎  より
(http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1999ozu/japanese/07.html)

あえてこのような構図を用いた理由として、
・小津監督へのオマージュ
および
・昼休みの教室内での会話という構図の強調
でしょう。

前者については、大反省会 三年目のルサンチマン(その1)で以下のような記述が根拠です。


山:蓮實重彦に怒られる事はない(笑)。

山本 寛:俺はこの「イマジナリーライン」ってのは、そりゃ映画100年を支えて来た黄金律には違いないんだろうけど、もう観る側の中にリアリティとしてない、と思ってるの。

(注釈)しかし小津安二郎は知っていながら敢えてこれ(イマジナリーラインの文法)を無視し、結果その独自の映像美学が各国の驚異の的となった、という有名な逸話もある。


このように、山本氏およびスタジオ枯山水のスタッフには、映像文法と小津安二郎(あと蓮實重彦(評論家))についてそれなりに知見・影響があるようです。
#ちなみに「時をかける少女」の細田守も、 自作を語る『ひみつのアッコちゃん』 の中で蓮見重彦に言及しています。映像作家の基礎教養なんですね。(もっともこの記事は全体におちゃらけた体裁ですが)
そこでわたしは、手元にあったエイゼンシュテインの「映画演出法講義」(未来社)や、YU・M・ロトマンの「映画の記号論」(平凡社)や、松浦寿輝「映画nー1」(筑摩書房)や、蓮見重彦の「監督小津安二郎」(ちくま文庫)を手に取ろうとしたがアッコとは関係ないのでやめて、ひたすらシナリオと格闘した。


さて、後者の 昼休みの教室内での会話という構図の強調 については演出意図の推測にとどまりますが、このカットでは手前の女の子の楽しげな談笑の様子や、この構図のさらに手前を女の子が横切らせたりして、ことさらキョンたち以外の要素を描くことにより、クラス全体の雰囲気を印象付けようとしているのではないかと思います。 この後、谷口によるハルヒの奇行の解説とともに、屋上やプールサイドといった教室の外でひとり何かやらかしているハルヒを描写することによって、教室内の雰囲気との対比が強調されることになります。
ハルヒが既に孤立しつつあることについては、この直前のシーンでも細かい描写があり・・・・・

あーっ、全然次に進めない!!
続くぅっ!!! (Life Card 風)

水曜日, 7月 19, 2006

ハルヒ:2話 回想と一人称視点

(本文修正・画像追加 2006.7.30)
当サイトは、12話のキョン視点ネタ をきっかけにハルヒネタサイトになってしまいましたが、本当は映像演出・特にカメラワークの分析をしようと思ってたのです。アニメ版ハルヒは本当に丁寧に作られており、見返すほどにその細やかな演出に感心してしまいます。作品をより面白くしているバックボーンとして、表面的には意識されていない演出が多々あると思います。
そんな演出のあれこれを、気がつく限りピックアップして分析していきたいと思います。

回想からの転換:モノトーンからフルカラーへ
 放送第2話(構成第1話)「涼宮ハルヒの憂鬱 I」
 オープニングのキョンのモノローグはモノトーン風の色調で描かれており入学当初の回想シーンであることがわかります。クラスでのキョン自身の自己紹介もこの中であり回想の中です。

続くハルヒのあの自己紹介「・・・ただの地球人には興味ありません・・・」のシーンですが、実はここもモノトーン風の画面、まだ回想の中なんですね。キョンはまだハルヒの存在を認識しておらず、このセリフも背中越しにしか聞いていません。つまりハルヒの自己紹介のシーンをキョンは直接目撃していないんです。あくまでハルヒのセリフの記憶と当時のハルヒの髪型などからキョンが再構成したシーンであり完全に回想の一部です。




<ハルヒの自己紹介に凍りつく教室>




キョンが「これ笑うとこ・・・?」と振り返った瞬間から画面がフルカラーとなり、ここで初めてキョンはハルヒを認識します。まさにここが物語の始まりを示すシーンであり、キョンがハルヒに巻き込まれる物語が開始することをはっきりと示されています。

感心のポイント:
普通に考えるとハルヒの自己紹介のとこが一番インパクトありますよね。だからハルヒのセリフからフルカラーに切り替えたほうが効果があるかな、と思いがちですが、そこをはずしてきたのがうまいです。というか、キョン一人称視点ではこれが必然です。
ふつーの描写の延長上にハルヒのぶっ飛んだセリフを続けることによって、キョン+クラス全員が感じたであろう「?????なに、今の?????」という違和感を視聴者にも共有させることに成功してます。
これを、ハルヒがしゃべり始める直前に効果音をジャーンとつけて「東中出身 涼宮ハルヒ!!」などとやられてしまっては、完全にキョン視点からはずれてしまいます。この時点で人称視点がハルヒに移ってしまいかねず、これまでの回想シーンの位置づけが台無しです。

原作の導入部を見事に表現できていると思います。

#DVDでは放映時にカットされていた、自己紹介後の教室内でのヒソヒソ話リアクションが追加されているそうです。やっぱりクラス内での反応をきっちり盛り込んでいたのですね。

なお、この後も語りで「・・出会ってしまったのだ。」と回想としての言い回しもありますが、これは物語の語り部としてのポジションからくる回想表現であり、ハルヒ以前の回想とは別物です。


ところで、上記の回想シーンの中にもう一段深い回想としてクリスマスのサンタクロースのシーンがあります。これは色調をセピア調にして古さを表現している上に、画像を揺らすことによって時間的な距離感を表現しています。この揺れの表現は、他でも時間的・空間的な距離感をあらわすの用いられています。詳しくは次回 近日 そのうちなんとか・・・。

木曜日, 7月 13, 2006

ミームとしての「超監督 涼宮ハルヒ」



オープニング/エンディングのクレジット「超監督 ハルヒ」 のドでかい文字を見たとき、
「ああ、スタッフは『“涼宮ハルヒ”の意思に従ってハルヒの望む世界を構築する役割を担っている』という覚悟で挑んでいるのだなあ」
と漠然として思ってら、その後次々発売されるCDのクレジットでも涼宮ハルヒがプロデュースとなってるものだから、これはほぼ確信になってたのですが、

「オトナアニメ Vol.1 (洋泉社) 」

の山本寛インタビューで裏がとれました。
曰く:
・スタッフに、「SOS団の一員として振舞ってください」とお願いした
・みんなで“超監督 涼宮ハルヒ”の下で大騒ぎしようではありませんか
・ハルヒが(実在するとして)満足する内容、ハルヒが監督ならこうするであろうというコンセプト、これを本編制作からパブリシティまで徹底


と、想像したとおりのコンセプトでした。
クレジットの「シリーズ構成 涼宮ハルヒと愉快な仲間たち」は伊達ではないわけですね。

で、重要なのはこの先。こうして作られた作品世界というものは観測されて初めて意味を持つのです。つまり、われわれ視聴者、特にわたしのようにサイトを立ち上げてなんだかんだと、作品にのめり込んでいる輩もこの世界に組み込まれてしまっているわけですね。

そうゆうわけで改めて断言しましょう。涼宮ハルヒはミームである、と。
それも強力極まりないミームです。つまり我々の思考がミームとしてのハルヒを形作っているのでなく、ハルヒというミームを実現するために観察者としての我々が存在している、という構図です。
上記のコンセプトは極論するとそうゆうことで、アニメ化による 情報フレア はまさに、そのコンセプトを(ハルヒの)狙い通りにメタに実現したものといえるでしょう。

日曜日, 7月 09, 2006

ハルヒ:自主映画制作のススメ

アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」が終了して1週間ほど経ちますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。既に第2シーズン「消失」の予想 [アニメ]涼宮ハルヒ第2期 「涼宮ハルヒの消失(仮題)」 放映順妄想(笑) などしている方もいてしばらくは余韻が続きそうです。

ハルヒへのハマリかたは人それぞれでしょうが、「ミクルの冒険」にわけもわからず引き込まれた方、ライブアライブに感動したそこのあなた。もし学生さんで秋に文化際があるというのでしたら、この夏休みに映画をつくってみてはいかがでしょう。その経験は一生の財産になりますよ、マジで。

実は、私も某北高学園祭のクラス企画で映画を撮ったことあるんですよ。(当時は8mmフィルム) 学校を舞台にしたエスパーものの追いかけっこで、当然舞台は校舎がメインで某公園の噴水の中での格闘シーン、手描きのビームエフェクト入れたり、近所商店街スポンサーをCMを作成したり・・・・
という訳で、朝比奈ミクルの冒険EP00を観た時には画面の前で悶絶してましたよ。デジャブなんてもんじゃなかったです。

それはさておき、映画制作経験は本当におすすめです。

映画制作の経験は例え素人レベルであっても「作り手側」の視点という貴重な経験を残してくれるものだと思います。今ならビデオカメラが当たり前のようにあるから誰にでも動画の撮影経験というのはあるでしょう。しかしその撮影対象は運動会や結婚式というようなイベントであり、撮影は記録にしか過ぎません。
映画制作は基本的に無からの創造です。まずストーリーを起こし、配役を決めて演技も考え、必要な衣装・道具を手配し、ロケハンもし、撮り方などの種々の演出を決めて、編集して、、、、、と、ひとつのカット・シーンをとるだけで非常に多くのことを考え実行しなくてはなりません。
ですから一度でも制作経験があると、画面の構図やカメラ設定、とかカットのつなぎかたといった撮影について敏感になります。脚本についても多少は「なるほど、プロはこう書くのか」という感想を持てるようになります。
もちろんTVや映画を常にそのような作り手視点で観ているわけではなく、ちょっとした演出で「あれ?」とひっかかりを感じた時や、逆に自然に感動を呼ぶようなシーンについて、振り返って作りを確認することにより、その原因を少しは論理的に理解できることがある、ということです。

    サンプル:  EP00より、イツキとユキの会話シーン 

 
  このシーン、映画の文法を知っているとニヤリとできます。詳しくは以下を参照:
イマジナリーライン
幻視球:『涼宮ハルヒの憂鬱』#12、違和感の演出
  ただ、山本監督には「イマジナリーラインを信用していない(怨念戦隊ルサンチマン:大反省会)」という発言もあるので、それを考えるとこの演出は、自主映画風の演出からさらに一回りした演出と言えなくもないかもしれません。

たいていの人は読書はできるし作文の経験はあるでしょうが、小説を書いた経験がある人は少ないでしょう。ストーリーを漠然と思い描けたとしても、それを具体的に小説の形にし、また人に伝わるように構成するにはそれなりの知識と経験が必要です。しかし、まがりなりにも小説を書いた(書こうとした)ことがあれば、その経験によって、ストーリーを楽しめるだけでなく、なぜそれが面白いのか(またはつまらないのか)というところまで小説を楽しめるようになるでしょう。

ただ、映画制作には時間も人も必要ですし、思い立ってすぐ出来るものでもないでしょう。だからこそ機会がなければ一生経験しないままの可能性が高いのです。学生時代ならば仲間も時間も大義名分(大抵は文化祭)もあるでしょう。ですから一度でいいから是非挑戦してみて欲しいです。下手をすると惨憺たるラッシュフィルムしか残らないかもしれませんが、それはそれで貴重な経験になるでしょう。
そして、数多くチャレンジの中から次世代を牽引する本格的な作り手に回る才能の持ち主が登場してくることを期待しています。

#私にとっては、EP00を堪能できた最大要因です。

金曜日, 7月 07, 2006

サマタイム

大島弓子の短編「サマタイム」(ダリアの帯 収録)を思い出した。
20年くらい前に発表されたものだ。確か選集にも収録されており10年くらい前に書評でとりあがられたことがある ― 阪神大震災のトラウマと癒しという観点で。


今頃この作品の記憶のトリガーをひいたのは、

・ハルヒの七夕  世界がかわる・・・・新しい世界が生まれる

それと、

・ミサイル    世界が終わる・・・・そして世界が続く




七夕のお願いに追加しておこう

「世界が続いていますように。願わくば平和で」

-----------------------------
(http://www.kk.iij4u.or.jp/~mitani/osusume.htm より)
サマタイム

1984 別冊LaLa9月号(白泉社)
花とゆめコミックス「綿の国星」7巻(白泉社)、大島弓子選集11巻(朝日ソノラマ)

ある夏の日、雷が落ちました
村はいつもとおなじでした
ただ帰ってくるはずの熊沢伸一が帰ってきません
トオルの結婚式はもうすぐなのに

ハルヒ:七夕

今日は「あの」七夕だそうな。(チョイヲタ日記:涼宮ハルヒの情報フレア

願い事したら世界が望みのままに替わるのかな・・・・・3年後。

んーと、どうしようかな。

「サッカーワールドカップ南アフリカ大会に日本が出場できますように」
「○○○○○が無事□□しますように(マジなので言えない)」

にしておこう。

月曜日, 7月 03, 2006

ハルヒ:ザ・スニーカー8号(9話脚本掲載)

賀東招二×谷川流 スペシャル対談

ほうほう、谷川は受けで(違  

ついつい買ってしまいました。対談も面白かったのですが本当の目当ては、ハレ貼れユカイ書き下ろしポスター・・・・ではなくて、
構成14話 放送9話(←録音台本の表紙表記)「サムデイ イン ザ レイン」脚本です。
放送されたものとほとんど違いありません。意外にも、カットの構図も脚本段階で結構指定されているのですね。窓の外からの映像、とか、ビデオカメラ映像で画面内の時計によって時間の飛びなどを表現することまで指定されていました。
まあ、対談を読むとかなり細かいところまで議論されているようなので、この掲載された脚本が初稿から手をいれらたものである可能性もありますが。

ハルヒ:ライブアライブとリンダリンダリンダ

ハルヒ12話「ライブアライブ」のライブシーンは映画「リンダリンダリンダ」から構図を持ってきているとの指摘をどこかのサイトのコメント欄で見てはいたんですが、ぼつぼつと比較情報が出てきまして確認できました。

ハルヒ×リンダリンダ。インスパイヤではないオマージュだっ!
ほうほう、やっぱりハルヒが攻めで(違   もうひとつ。
リンダx3とハルヒのなんとか
こっちはリンダが攻(違    
両者の写真データは一緒のようです。同じ人のサイトか、もしくは共通ソースがあるのかもしれません。

さて演算子の解釈はさておき、この写真を見る限りたしかに「リンダ…」を元ネタとしているようです。構図はありがちなものでしょうが、演奏後にメンバーの顔を順番に見る様子は明らかに意識したものですね。
けど、これで「なんだパクリかあ」とがっかりしたかというとそんなことはなく、むしろ「それなりの評判だった映画の要素に、アニメでどこまで迫れるかがっぷりと取り組んだシーケンス」ということになり、俄然元ネタ「リンダ…」の映像を見てみたくなりましたよ。
特に上記サイトの比較では、前回言及したロー/ハイアングルのカットがありません。あとハンディの手振れのカット。これらは特徴のある構図なので元ネタであるとしたら比較対象になるはずなんですが、これがないということはライブアライブでの独自演出ということになります。(仮にそうだとすると)アニメだと更にここまでできるんだぞ、というスタッフの意気込みが炸裂
した挑戦状といえるでしょうか。実際元ネタに関係なく度肝抜かれた人多数ですから大成功であったことには違いないですね。

#昨日観た映画版「デスノート」のエルと詩織(映画オリジナルキャスト)は偶然にも「リンダ…」で共演してたようで、これも何かの縁でしょうから是非とも「リンダ…」を確認してみたいと思います。
 →観ました。エントリはこちら: ハルヒ: 検証 ライブアライブとリンダリンダリンダ
   映画レビュー: 映画:リンダリンダリンダ

##「デスノート」の出来については・・・・・とりあえず原作と比較して観る映画ではないとことだけ申し上げましょう。

土曜日, 6月 24, 2006

ハルヒ12話「ライブアライブ」におけるカメラと視点

北高・自主映画作成・軽音・・・・ 琴線ふれまくりですよ。
(全体についてはhttp://linernotes.cocolog-nifty.com/linernotes/2006/06/12__3a9b.htmlがくわしい)
12話のライブシーンについては既に祭りなわけで、演奏シーンの神懸り作画はもとより(演奏関係の情報はhttp://d.hatena.ne.jp/makaronisan/20060623がくわしい)ライブアクトの絵造りもすごいことになってます。ハンディ映像なんかも入れたりしてね。
ところがカメラワークのチェックがあんまりない。エピソード0で自主映画にありがちなカメラワークが解析されつくされていたのに、ちと意外。
とりあえず気がついたことがあるのでとりあえずアップします。



これENOZの前に演奏したバンドのラストカットです。この直前のカットで一度ブラックアウトしており、つまりキョンが睡魔で意識が飛んだ描写になっていることから、このアングルと構図がキョン視点(いわゆる“見た目”)なのは明らかなのですが、



ENOZ登場



驚くキョン。それは・・・・



何故かハルヒが登場したから。



「何やってんだあいつは」、と驚いて立ち上がる。





セッティング後、アイコンタクトで演奏開始。


ここです
ハルヒたちの足元に注目。上の画像と違いますね。観客が増えたってことじゃないですよ。
ステージの明るい床面が見えてますね。これキョンが驚いて立ち上がったことにより視線が数十cmほど高くなったということです。
ここまできっちり演出するとは・・・・どこまでやる気だ京アニ。




ちなみに演奏中盤は、観客総立ち
演奏中の演出も細かい。リアルな演奏だけでなくプレイヤーの心理状態も描写もきっちりしてます。ハルヒから長門への視線というあたりもお見逃し無く。



1曲目終了。すぐ前の列の男子がいなくなってるなあ。舞台のほうにいっちゃったかな。
このアングルからの絵だけで会場の雰囲気の流れがきっちり描かれています。

EZONENOZのライブアクトをきっちり収めるためにカメラ配置はどうなっているか、をチェックしようと思ったのですが、1曲目だけで数十カット。誰かまとめてくれないかなあ・・・
ステージの画面だけでも少なくとも
・フロアからローアングルで左右。アオリでパンした絵(斜め構図)もありレールカメラかも。レンズにティルトもあるような。
・ステージそで上手/下手からロングショット。それぞれ複数台(または舞台奥⇔手前移動あり)上手にはさらにハンディでハルヒアップ
・ステージ袖天井から見下ろすハイアングル(客席の俯瞰も兼用かな?)
・ギターは上手から俯瞰・アオリ固定
・ステージ奥から客席へのバックショット
・ハルヒ正面からのアップ。(これはキョン視点とは別のロングショット)

・・・・・・まだあったかな。さらに客席映像もキョン視点以外のかめらが結構はいってます。あの迫力の映像のためにはこれだけのセッティングがいるわけですよ。

もちろんカメラ自体は写り込んでないのでバーチャルな演出なんですけどね。このカメラワークを体感できるのはアニメ作品視聴者だけであり、キョンを含め登場人物の視点にはなりえないのですね。これはアニメの地のカット割でもそうなのですが、その辺を掘り下げると演出意図の解析にいたるわけで、それはまあ他の方がさんざんやってるからいいでしょう。

ただまあ、こんな理屈なんかどうでもいいぐらい演奏にハマりました。サビのタメの部分ではほんとにグッときましたよ。ほんとにすごいです。

文化祭のステージでリアルこんな撮影できたら楽しいだろうなあ。
#映像関係素人なので用語間違ってたらごめんなさい

関連エントリ
ハルヒ:ライブアライブとリンダリンダリンダ
ハルヒ: 検証 ライブアライブとリンダリンダリンダ
「涼宮ハルヒの憂鬱」関係エントリまとめ
映画:リンダリンダリンダ

木曜日, 6月 01, 2006

ハルヒ読了

「涼宮ハルヒの憂鬱」
アニメ化による大ブレークに引きずられて手を出した。小説もライトノベルの範疇を超えて面白いが、アニメ化によるWEB界でのブームもまた面白い。この作品は、何か語りたくなる力があるようだ。かくゆう私も色々と琴線に触れるところが多く、ひさびさにブログをアップデートしたりして。
先日ようやく原作を全部(今のところ8巻)読み終わったので、今後少しずつ語っていこうか。