(犬井ヒロシ風にお読みください)
リンダ×3のブルース
リンダ×3のブルース 聴いてくれ
こないだ、「リンダリンダリンダ」っていう女子高生が文化祭でバンドをやるっていう
いわゆる青春映画を観た後の話なんやけどぉ~
ストーリーや出演者や演出にめちゃめちゃ共感して
神映画である
と全人格をかけて絶賛するのか~
それともぉ~
シネフィルきどった古臭い映画センスの作品が世にはばかるのは我慢ならんと、自らの映画センスに賭けて
カットを割らないでダラダラ撮り、奇妙な「間」を生み出すことが、あたかも「作家的」と思われる傾向が、この国にはあるが、これは、ただカット割りの技術すらない素人同然の演出で、金取って見せてはいけない代物だ。
と全否定するのはぁ
自由だあーーー!!!!
リンダ is freedom ♪ リンダ is freedom.♪
(繰り返し)
けどぉ、掲示板で相手のレビューの否定をすると大炎上になるから、アップするのは自分とこのブログだけにしといたほうが、ええでぇ。
チャラチャ チャッチャーン
はい、微妙な売れ筋のお笑いネタで、数少ないリピート読者までも置いてけぼりにしたところで、映画「リンダリンダリンダ」(以下、リンダ×3)のレビューです。
関連エントリ: ハルヒ:検証 ライブアライブとリンダリンダリンダ
ハルヒ:ライブアライブとリンダリンダリンダ
総評:製作・監督・脚本・役者・配給の意図と個性が奇跡的に融合して生まれた青春映画。
この作品、好き嫌いがわかれる映画だろうなあと思ったら、やっぱり賛否真っ二つ。意外だったのは賛成のほうがかなり多かったこと。例えば映画生活の採点分布。普通は好評な作品で80点あたりをピークに山がた分布でしょう。ところが「リンダ×3」では100点と0点を極大にした谷がた分布です。しかも圧倒的に100点側に触れている。好きな人は好き、嫌いな人は嫌いというカルト系作品に良く見られる傾向ではありますが、そうゆうのってマニア受けですから、全体で「好き」の側が優勢って珍しいですね。
では何故に好き嫌いが分かれるのかというと、作品に散りばめられた要素が観客の感情にポジティブフィードバックをかけてくる作りになっているからなんだと思います。だから共感できる要素を見つけられる人には、どんどん作品が「自分にとってリアル」になってくるという好循環、逆にだめな人には、要素の全て、特に演出面が駄目駄目になってしまうという悪循環を生み出すのでしょう。
つまりこの作品は骸骨みたいなもので、観客が共感によって自分向けの肉付けをすることによって各々の傑作に昇華されているものなのでしょう。幅広く、如何様にも肉付け可能な骸骨を実現したのは徹底した脚本の削り込みと監督の演出の賜物でしょう。そしてその骸骨に観客の感情を共感させることを可能としたのは4人の女の子達の存在感と空気感に拠るところが大きいと思います。
もう本当に絶妙なタイミングで集結された企画と才能によって成立したとしか思えない稀有の作品でしょう。
まとまりがつかないので、後は雑記でお茶を濁します。
私の好きなシーン:夕方、スタジオから学校への帰り道、4人が川沿いの堤防を楽器を担いで連なって歩くところです。風景を広く捉えた俯瞰から4人の歩みをフォローで追いかける。黙々と、しっかりと、等間隔で歩いていく姿。
絵として綺麗とかリアルかどうかとかでもなく、具体的なシチュエーションが思い出せるわけでも言葉にできるわけでもないんですが、確かに高校生の時のどこかの風景のひとつなんですよ。
演出関係トリビア(内容に触れますので未見の方はご注意を)
後半部の夢のとこ(サプライズで“大きい手のプレゼント”をもらったり、武道館(どこのだ(^^; )に立ったりするシーン)、好評価の人にも「蛇足だ」とか「わけわかんない」とか言われてるんですが、実はここのシーケンスは結構ひねくれた演出がなされており、解釈の余地があるんですよ。
シーケンスのおさらい。
(1)スタジオでの最後の練習中、恵ウトウト
(2)目を覚ますためにトイレに顔を洗いに行く
(3)ソンも来て会話をかわす。「バンドに誘ってくれてありがとう」
(4)トイレから戻ると元彼がギターでお出迎え
(5)お母さんがケーキまで持ってきてサプライズパーティーだ
(6)元彼からのプレゼント“大きな手”
(7)シーン学校 「先輩達どこいったんだろう」
(8)恵ステージ(武道館!?)に立つ。ピエールさんたちも来てくれた
(9)携帯の着信音でようやく目をさます。
これ、少なくとも(8)のところで夢であること気づくのですが、ひねくれたことに(7)の現実のシーンをはさんでいるために、どこからが夢の始まりか溯り難くなっているんですよね。正直言って、私も(8)でようやく、なんだあ夢かあ、気がついた口です。
じゃあ夢が始まったのはどこからかなと考えると(2)のトイレのシーンから、と考えるのが一番素直なんですよね。トイレの照明がホワイトバランス設定間違えたみたいに緑色なのは違和感をかもし出す意図的なものでしょう。ということは、ソンの感謝の言葉のやりとり、も夢の中のことなんですよね。そもそも晩御飯の時には韓国語通じてなかったし。
これ以降にも“夢”の違和感は織り込まれています。
・(4)元彼。お、いつのまに。ちょっとケレンミがきつすぎないか
・(5)サプライズ。あれ?このスタジオ学校から遠かったよな。なんでお母さん?家は近いの?それになんのサプライズ。誕生日か?違うの?何?
・(6)“大きな手”のプレゼント。 おいおいシャレじゃないの。一瞬ひくだろう。そんなに感動するとこか。そもそもそれつけてギター弾けるのか。なんで誰もつっこまないの。
気がつけばこのように夢の伏線はちりばめられているのですが、監督はあえて(7)の学校のシーンを挿入して夢のシーケンスを分断しています。これにより時間経過による緊迫感を表面的に持たせつつ、実は意図的に夢の開始点をぼかしています。これは観客に解釈の幅を持たせるためでしょう。実際、レビューの中には、ソンと恵が感謝しあうシーンがよかったと言っている人もいます。それもありなんでしょう。可能な限り観客の解釈を許容して、観客の共感の度合いを強化できる構造になっている。これがこの作品の強みなんだと思います。
レビュー大炎上
最初のネタ中の批判は、なかなかの激論に発展しました。はたから見てると面白いです。結構参考にもなるし。ただ、どっちもどっちで、スネークマンショーの音楽批評バトルのねたを思いだしてしまいました。
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