木曜日, 7月 13, 2006

ミームとしての「超監督 涼宮ハルヒ」



オープニング/エンディングのクレジット「超監督 ハルヒ」 のドでかい文字を見たとき、
「ああ、スタッフは『“涼宮ハルヒ”の意思に従ってハルヒの望む世界を構築する役割を担っている』という覚悟で挑んでいるのだなあ」
と漠然として思ってら、その後次々発売されるCDのクレジットでも涼宮ハルヒがプロデュースとなってるものだから、これはほぼ確信になってたのですが、

「オトナアニメ Vol.1 (洋泉社) 」

の山本寛インタビューで裏がとれました。
曰く:
・スタッフに、「SOS団の一員として振舞ってください」とお願いした
・みんなで“超監督 涼宮ハルヒ”の下で大騒ぎしようではありませんか
・ハルヒが(実在するとして)満足する内容、ハルヒが監督ならこうするであろうというコンセプト、これを本編制作からパブリシティまで徹底


と、想像したとおりのコンセプトでした。
クレジットの「シリーズ構成 涼宮ハルヒと愉快な仲間たち」は伊達ではないわけですね。

で、重要なのはこの先。こうして作られた作品世界というものは観測されて初めて意味を持つのです。つまり、われわれ視聴者、特にわたしのようにサイトを立ち上げてなんだかんだと、作品にのめり込んでいる輩もこの世界に組み込まれてしまっているわけですね。

そうゆうわけで改めて断言しましょう。涼宮ハルヒはミームである、と。
それも強力極まりないミームです。つまり我々の思考がミームとしてのハルヒを形作っているのでなく、ハルヒというミームを実現するために観察者としての我々が存在している、という構図です。
上記のコンセプトは極論するとそうゆうことで、アニメ化による 情報フレア はまさに、そのコンセプトを(ハルヒの)狙い通りにメタに実現したものといえるでしょう。