金曜日に妙にハルヒ関係のアクセスが増えたので「新刊が出るだけで反応があるのかなぁ」などと思っていたのだが、実は2chの『らき☆すたアンチスレ Part2』に、ハルヒ: 検証 ライブアライブとリンダリンダリンダのURLが貼られていたのが原因だったみたい。スレがdat落ちしたと同時にアクセスなくなったのでほんとに一過性だったけど。
山本監督のパクリ疑惑の文脈で参照されてたのだが、なんにせよ議論の材料として紹介していただけたのは感謝。けど、なんの説明もなくURLだけ貼られているもんだから、結局スレ上は完全にスルーだったのが、ちと残念(^^;
たぶんURLを貼った人は「確かに『ライブアライブ』は『リンダリンダリンダ』から構図を拝借しているが、単なるパクリではないよ」という例を示したかったのだろう。まあアンチのスレだから肯定的なコメントをつけにくかったのもしょうがないか。
という訳で「らき☆すた」第1回を観てみた。
せっかくだからOPとさわりに当サイト的にコメントしておこう。
ダンスの動きと音楽については散々語られているので、これは置いといて、注目したいのは美術。ダンス以外のカットの背景は実在のもので、ハルヒの時と同様に、今回は春日部でかなり細かなロケハンをしたもよう。
萌え系4コマが原作なんだから舞台のリアリティは必ずしも必要ないと思うのだけども、やはりそこは京アニ、まずは原作を背景から含めて徹底的にリサーチしたのだろう。
そもそも原作キャラがとっとも漫画的であるため非常に平面的にならざるを得ないのだが、しょっぱなの派手なダンスから、静的な春日部の風景に移行させ、ここにキャラを小さくはめこみ、リアリティのある世界と萌えキャラをうまく溶け込ませている。しかもどっかで見たことあるような仕草まで入れて、視聴者のツボをはずさず、なかなかに手が込んでいる。
本編構成も単調に見えて結構考えられている。
いきなりゆるーい女子高生のだべりには入っていない。まず校庭での情景を、短いながら丁寧に描いて、こなたの走るシーンの漫画的な表現をクッションとして本編の漫画構図のシーケンスにつないでいる。このあたりにも原作をいかにしてアニメの世界に持ってきて表現するかを考えてのことだろう
どうも件のアンチスレでは、本編のゆるさが期待はずれだったようで、「山本監督憎し」となっているみたいなのだが、少なくとも、上記のように、OPから本編までのシーケンスをみるだけでも原作を相当咀嚼して、アニメとしての表現を考えた上での形だと思う。京アニの丁寧さは決してハルヒにひけをとっていないだろう。
だから作品の評価はもう少し展開をみてからでもいいんではないかな、と思うのだが。
あと、カメラワーク的注目点はOPのチアダンスのシーン。
背景の校舎をフォーカスはずした、チア陣形を望遠で捉えた構図。望遠構図は奥行きが圧縮される。これ、平面的なキャラクターを逆手にとったものである。さらに背景の動きで横ドリーを表現するカメラワークによって、キャラのダンスに校庭での空間の広がりを感じさせている。
OPでこのチアダンスのシーンは、曲もサビの一番の盛り上がるシーンであり、サビのシーケンスでのタメから開放に繋がる流れにマッチした絵を、最小限のカメラワークで見事に構成している巧みな演出だと思う
パクリだなんだと言われているようだが、山本監督は自覚的にやっているようだし(参考エントリ)実際、演出の効果は単なるパロディではなく、なかなかに感心するところが多い。
氏の引用のセンスはもっと評価されていいのでは、と思う。
日曜日, 4月 15, 2007
アニメ:「らき☆すた」が賛否両論のようだが・・・・・
金曜日, 4月 13, 2007
ドラマ:演歌の女王 総括
4月からもう新しいドラマが始まっているのに今更ではあるが、「演歌の女王」が、なぜ、あそこまで迷走してしまったかを勝手に推測して締めくくりとしたい。
一言でいえば「製作陣全体でのビジョンの欠落」が最大原因だったのではないか、と思う。
放映終了後、脚本家や演出家が本来描きたかったものはなんだったのだろうか、と考えてみたがいかんせん手がかりがなさすぎる。話が動き始めそうに見えた5幕あたりから迷走が始まってしまったからなあ。結局数少ない伏線すら全然回収されなかったし・・・・・・・・
もしかして「脚本家も何をやりたいか考えあぐねての見切り発車だった」のか?
そう考えると第1幕以降のもたつき感もしっくりくる。とりあえず、売れない演歌歌手の背景と日常と不幸色々とを配置しておこうか、という程度の作りこみだったのでは、とか。
そのような状況として可能性として考えられるのは、
「表現したいテーマがあって売れない演歌歌手」を設定したのではなく、
「演歌(歌手)をモチーフに何かドラマを仕立てなくてはならなかった」
という類のことではないだろうか。例えば広告代理店の何かのマーケティングの一環で「演歌プッシュ」という流れに巻き込まれてしまったようなものとかね。
傍目には、脚本・演出・役者陣・土9枠、どれをとってもはずしようのない布陣にみえたのだが、やはりドラマや映画は総合力が勝負なのだ。関係者の製作へ向かうベクトルが揃わなければ、全体のパワーも勢いも全然見当はずれになってしまう。
今にして思えば、やたらと「女王の教室」がらみのキャストやネタをからめたりして数字を取ろうとしていたことや、着歌ダウンロード好調などと別方向の材料で盛り上げを煽ったりと、
妙にあざといことをしていたが、視聴率のテコ入れだけではない思惑が働いていたということなのかもしれない。
そうゆう穿った目で総括してしまうと、
中森明菜カバーアルバムで演歌歌う
という記事も、ついつい斜めに見てしまう。演歌ねぇ。これも「演歌」テコ入れの一環なのかなあ。
もしかして森進一の騒動も実は似たような狙いだったりして。
まあ陰謀論的妄想は置いとくとして、やはりドラマでも映画でもアニメでも、スタッフ全体のモチベーションを束ねられる確固たるビジョンがないことには、どうにもならんのだろうなあ、という月並みな結論ということで。
水曜日, 3月 21, 2007
ドラマ:演歌の女王 第8幕~最終幕・・・これはデッドエンドだろう・・・
最終幕、うわべのぬるーい大団円とは裏腹にバッドエンドの印象が強い。
#詳細なあらすじは、どらま・のーと をどうぞ
ヒロシからの電話の後にも「もういいや」と一度死を決意した後の
「いや、まだ私が幸せになっていない!」
という思いからの復活、そして帰還・・・・・・・
これ以降の終盤まで描写は、本当に帰還してからのことなのか?
全て、ひまわりが事切れる間際の夢なのではないのか。
・なぜいつもの病院にいる。雪山そばの最寄の病院の入院が普通では?
・エンディングの着物。なぜ仕立てが済んでいる?
紅白が決まった時に着てもらうのでなかったのか?
・病院のロビーでの独演会。いいのか?
もちろんこれらはドラマのご都合主義という解釈もあるだろう。ただこれらの不自然な描写はスタッフの意図的なものと感じる。
エンディングまでのシーンそこそこに違和感を散りばめ、最後にぷっつりと「完」。
これは典型的なオープンエンディングではないのか。
そう思ってみると他にも死のイメージが散りばめられているといえなくもない。
・ヒロシとのじゃんけん勝負「おまえが負けたら雪山へ戻れ」
・・・・これ、勝てば幸せな夢を見たまま逝き、負けたら現実に戻っての死、とも思える。
・エレベーター前で向かえる知人・家族達
・・・・まるで“お迎え”ではないか。
・髪飾りをつけるひまわり。鏡に映る姿は“左前”=“死装束”である。
・・・・このカット、後ろに立つ幸子に気がつくためのつなぎなのであるが、鏡には友子を映っていない。あえて鏡に写るバストショットを撮る意図があったようにも感じる。
・消えてゆく幸子。
・・・・ひまわりが生まれ変わる故に消えてゆくというハッピィエンドの解釈もあるが、幸子そのものの死であり、幻影としてのひまわりが残っているというようにも思える
いや、まあ、そう思えば思えてしまうだけ、といわれればそうなのだが、そう思えるような作りをしているのは意図的なのではないか。
そもそもしょっぱなから、いつもの分かれ道が“ハッピィエンド”か“デッドエンド”。
#ついでに降り立った駅が「行止」(ほんとは行上)
ハッピィエンドの反対語ってデッドエンドか? アンハッピィエンドって言葉もあるんだけどね。
dead-endは「行き止まり・袋小路」であり、「死んで終わり」という意味はない。
実はゲームでおなじみの“バッドエンド(bad end)”こそ“死による終焉”を指す。
スタッフは最初に言っていた。「ドラマを観た人達に最後に幸せになってもらいたい」、と。
たしかにハッピィエンドの体裁はとっている。
しかし、あまりにも違和感がぬぐえない。
志田先生・温水刑事の身の振り方などとってつけたような説明。もしかしたら本来はもっとメインにからむエピソードがあったかもしれない
そもそも最大のバックボーンであった父親との再会が全てを否定して絶望をもたらすだけのものだったという結末。本当にこれが狙いだったのか。
予定されたエピソードも伏線もまともに回収できない。
ハッピィエンドでもアンハッピィエンドにもできない。
最後まで迷走したスタッフの苦悩を感じずにいられない。
行止り・デッドエンド これがスタッフの選んだラストだったのだろう。
#第8幕・第9幕については完全に書く機会を逸してしまった。
まずは、ドラマ終了をかみ締めて、次の福田麻由子を心待ちにしよう。
“セレンディップの奇跡”見逃した・・・ orz
水曜日, 3月 07, 2007
ハルヒ:賀東ブログ
ここ数日“賀東昭二 ブログ”の検索する人多数。なんでだろ、と思ったら、賀東招二さんだったのですね
・・・・・・・・うかつ
#長門由紀もいまだに検索1位なんだよなあ・・・
そんなわけで賀東招二氏のブログはこちら GATOH.COM blog style
どうも3月下旬に「フルメタル・パニック」の新刊がでるようです。検索が増えたのはこのせいかも。
で、賀東氏は「フルメタ」原作者としての知名度が圧倒的なのですが、このサイト的には
「射手座の日(放映11話)」の脚本担当であることが重要なのは言うまでもありません。
件のブログでもそのことにチラッと触れられています。
某アニメの脚本日記
いや、あの。
なんか楽しそうだったから混ぜてもらっちゃった^^;
関係者の皆様、ありがとうございました。
こういう機会があったら、また是非是非よろしくお願いいたします。
投稿者: 賀東招二 日時: 2006年06月12日
この後のコメント欄での反応もちょっと面白いです。
月曜日, 2月 26, 2007
ハルヒ:「ミクルの冒険Episode00」の必然性
演歌の女王のフォローがいっぱいいっぱいでハルヒ関係は月間になってしまってハルヒネタ期待の方には申し訳ありません。けどアクセス解析をみると、ここのところハルヒねたでこられる方で少なからず隅から隅まで読んでいってくださる方が増えているようで、ちょとうれしいです。
2月もなんとかハルヒのエントリということで「ミクルの冒険」(以下「冒険」)についてちょっと語らせていただきます。
放映開始での「冒険」のインパクトはいうまでもありませんが、ちょっと気になってたのがDVD版でも最初にリリースされたことです。しかも番外編という形で。
まあ常識的に考えれば
・インパクトのあるうちにDVDをリリースをして勢いをつけておきたい
・時系列にこだわると第6巻で「冒険」「ライブアライブ」のカップリングとなり、最大の山場である「ライブアライブ」とのギャップが大き過ぎる。
といったことが考えられるので、やっぱり番外編・パイロット編としての位置づけが自然なのだろうなあ、と納得してました。
で、ハルヒのカメラワークをあらためて確認していて、ハルヒ最大のポイント「一人称視点」の演出を深く知る過程で、「冒険」DVDにおいても最初に来るのは必然であるということがわかりました。
一人称視点演出、ハルヒはこれに始まりこれに終わると言い切ってもいいでしょう。これをアニメでどのように表現するかは相当悩んだということはスタッフのインタビューでも語られています。で、実際の演出はどうかは、物語の開始である「憂鬱Ⅰ」(放映2話)でいかんなく疲労されています。本サイトでも、一人称視点が多様なカメラワークでどのように描写されてきているのはいくつか解説してきました。以降の話でも、最終話「サムデイ・イン・ザ・レイン」を除いて、一人称視点の演出は工夫・徹底されています。非常に丁寧な演出によって、視聴者はこの一人称視点の縛りをほとんどかんじなかったのではないでしょうか。
インタビューによると、制作の初期段階で、スタッフは全部カットをキョンの「見た目」視点にすることも考えたが、それだと「ジャンピング」(手塚治虫の実験アニメ)になってしまうのでさすがにやめた、と語られています。
しかし、私が思うにこの全部「見た目」という演出は、実は「冒険」でなされているのではないかと思うのです。SOS団制作のグタグタな自主制作映画をそのまま本編とするという視聴者の度肝を抜いた体裁でついつい忘れがちなんですが、よく考えてみると、この映画は完全なキョンの「見た目」なんですよね。カメラというワンクッションはありますが。
「冒険」は自主制作映画を完全に再現することにより、普段は視聴者に意識させない「カメラ」の存在を強烈にアピールしています。この話の主人公は他でもない「カメラ」なんですね。そしてファインダーを通してこの世界を見つめていたキョンがつっこみをいれています。このエピソードによって視聴者は、「見た目」の視点を完全に刷り込まれ、これ以降のエピソードでの視点のベースを自然にキョンにおくことができるようなっているはずです。
このアニメは「キョンが世界につっこみを入れていくのをキョン視点で追いかける」ということです。
ですからDVD版においても本編の導入部として「冒険」は最初でなくてはならなかったのでしょう。
ここでさらに驚くべきことは「冒険」(メイキングである「溜息」ではなく)が既に原作に最初からあった、ということです。これを採用した京アニも凄いのですが、スタッフ達は採用決定時点で改めて「ハルヒの手のひらの上にいる」ということに思いいたったのではないでしょうか。作品世界にこれを準備していた谷川流より、ここはやはりハルヒ恐るべし、というところでしょう。
