最終幕、うわべのぬるーい大団円とは裏腹にバッドエンドの印象が強い。
#詳細なあらすじは、どらま・のーと をどうぞ
ヒロシからの電話の後にも「もういいや」と一度死を決意した後の
「いや、まだ私が幸せになっていない!」
という思いからの復活、そして帰還・・・・・・・
これ以降の終盤まで描写は、本当に帰還してからのことなのか?
全て、ひまわりが事切れる間際の夢なのではないのか。
・なぜいつもの病院にいる。雪山そばの最寄の病院の入院が普通では?
・エンディングの着物。なぜ仕立てが済んでいる?
紅白が決まった時に着てもらうのでなかったのか?
・病院のロビーでの独演会。いいのか?
もちろんこれらはドラマのご都合主義という解釈もあるだろう。ただこれらの不自然な描写はスタッフの意図的なものと感じる。
エンディングまでのシーンそこそこに違和感を散りばめ、最後にぷっつりと「完」。
これは典型的なオープンエンディングではないのか。
そう思ってみると他にも死のイメージが散りばめられているといえなくもない。
・ヒロシとのじゃんけん勝負「おまえが負けたら雪山へ戻れ」
・・・・これ、勝てば幸せな夢を見たまま逝き、負けたら現実に戻っての死、とも思える。
・エレベーター前で向かえる知人・家族達
・・・・まるで“お迎え”ではないか。
・髪飾りをつけるひまわり。鏡に映る姿は“左前”=“死装束”である。
・・・・このカット、後ろに立つ幸子に気がつくためのつなぎなのであるが、鏡には友子を映っていない。あえて鏡に写るバストショットを撮る意図があったようにも感じる。
・消えてゆく幸子。
・・・・ひまわりが生まれ変わる故に消えてゆくというハッピィエンドの解釈もあるが、幸子そのものの死であり、幻影としてのひまわりが残っているというようにも思える
いや、まあ、そう思えば思えてしまうだけ、といわれればそうなのだが、そう思えるような作りをしているのは意図的なのではないか。
そもそもしょっぱなから、いつもの分かれ道が“ハッピィエンド”か“デッドエンド”。
#ついでに降り立った駅が「行止」(ほんとは行上)
ハッピィエンドの反対語ってデッドエンドか? アンハッピィエンドって言葉もあるんだけどね。
dead-endは「行き止まり・袋小路」であり、「死んで終わり」という意味はない。
実はゲームでおなじみの“バッドエンド(bad end)”こそ“死による終焉”を指す。
スタッフは最初に言っていた。「ドラマを観た人達に最後に幸せになってもらいたい」、と。
たしかにハッピィエンドの体裁はとっている。
しかし、あまりにも違和感がぬぐえない。
志田先生・温水刑事の身の振り方などとってつけたような説明。もしかしたら本来はもっとメインにからむエピソードがあったかもしれない
そもそも最大のバックボーンであった父親との再会が全てを否定して絶望をもたらすだけのものだったという結末。本当にこれが狙いだったのか。
予定されたエピソードも伏線もまともに回収できない。
ハッピィエンドでもアンハッピィエンドにもできない。
最後まで迷走したスタッフの苦悩を感じずにいられない。
行止り・デッドエンド これがスタッフの選んだラストだったのだろう。
#第8幕・第9幕については完全に書く機会を逸してしまった。
まずは、ドラマ終了をかみ締めて、次の福田麻由子を心待ちにしよう。
“セレンディップの奇跡”見逃した・・・ orz
水曜日, 3月 21, 2007
ドラマ:演歌の女王 第8幕~最終幕・・・これはデッドエンドだろう・・・
水曜日, 3月 07, 2007
ハルヒ:賀東ブログ
ここ数日“賀東昭二 ブログ”の検索する人多数。なんでだろ、と思ったら、賀東招二さんだったのですね
・・・・・・・・うかつ
#長門由紀もいまだに検索1位なんだよなあ・・・
そんなわけで賀東招二氏のブログはこちら GATOH.COM blog style
どうも3月下旬に「フルメタル・パニック」の新刊がでるようです。検索が増えたのはこのせいかも。
で、賀東氏は「フルメタ」原作者としての知名度が圧倒的なのですが、このサイト的には
「射手座の日(放映11話)」の脚本担当であることが重要なのは言うまでもありません。
件のブログでもそのことにチラッと触れられています。
某アニメの脚本日記
いや、あの。
なんか楽しそうだったから混ぜてもらっちゃった^^;
関係者の皆様、ありがとうございました。
こういう機会があったら、また是非是非よろしくお願いいたします。
投稿者: 賀東招二 日時: 2006年06月12日
この後のコメント欄での反応もちょっと面白いです。
月曜日, 2月 26, 2007
ハルヒ:「ミクルの冒険Episode00」の必然性
演歌の女王のフォローがいっぱいいっぱいでハルヒ関係は月間になってしまってハルヒネタ期待の方には申し訳ありません。けどアクセス解析をみると、ここのところハルヒねたでこられる方で少なからず隅から隅まで読んでいってくださる方が増えているようで、ちょとうれしいです。
2月もなんとかハルヒのエントリということで「ミクルの冒険」(以下「冒険」)についてちょっと語らせていただきます。
放映開始での「冒険」のインパクトはいうまでもありませんが、ちょっと気になってたのがDVD版でも最初にリリースされたことです。しかも番外編という形で。
まあ常識的に考えれば
・インパクトのあるうちにDVDをリリースをして勢いをつけておきたい
・時系列にこだわると第6巻で「冒険」「ライブアライブ」のカップリングとなり、最大の山場である「ライブアライブ」とのギャップが大き過ぎる。
といったことが考えられるので、やっぱり番外編・パイロット編としての位置づけが自然なのだろうなあ、と納得してました。
で、ハルヒのカメラワークをあらためて確認していて、ハルヒ最大のポイント「一人称視点」の演出を深く知る過程で、「冒険」DVDにおいても最初に来るのは必然であるということがわかりました。
一人称視点演出、ハルヒはこれに始まりこれに終わると言い切ってもいいでしょう。これをアニメでどのように表現するかは相当悩んだということはスタッフのインタビューでも語られています。で、実際の演出はどうかは、物語の開始である「憂鬱Ⅰ」(放映2話)でいかんなく疲労されています。本サイトでも、一人称視点が多様なカメラワークでどのように描写されてきているのはいくつか解説してきました。以降の話でも、最終話「サムデイ・イン・ザ・レイン」を除いて、一人称視点の演出は工夫・徹底されています。非常に丁寧な演出によって、視聴者はこの一人称視点の縛りをほとんどかんじなかったのではないでしょうか。
インタビューによると、制作の初期段階で、スタッフは全部カットをキョンの「見た目」視点にすることも考えたが、それだと「ジャンピング」(手塚治虫の実験アニメ)になってしまうのでさすがにやめた、と語られています。
しかし、私が思うにこの全部「見た目」という演出は、実は「冒険」でなされているのではないかと思うのです。SOS団制作のグタグタな自主制作映画をそのまま本編とするという視聴者の度肝を抜いた体裁でついつい忘れがちなんですが、よく考えてみると、この映画は完全なキョンの「見た目」なんですよね。カメラというワンクッションはありますが。
「冒険」は自主制作映画を完全に再現することにより、普段は視聴者に意識させない「カメラ」の存在を強烈にアピールしています。この話の主人公は他でもない「カメラ」なんですね。そしてファインダーを通してこの世界を見つめていたキョンがつっこみをいれています。このエピソードによって視聴者は、「見た目」の視点を完全に刷り込まれ、これ以降のエピソードでの視点のベースを自然にキョンにおくことができるようなっているはずです。
このアニメは「キョンが世界につっこみを入れていくのをキョン視点で追いかける」ということです。
ですからDVD版においても本編の導入部として「冒険」は最初でなくてはならなかったのでしょう。
ここでさらに驚くべきことは「冒険」(メイキングである「溜息」ではなく)が既に原作に最初からあった、ということです。これを採用した京アニも凄いのですが、スタッフ達は採用決定時点で改めて「ハルヒの手のひらの上にいる」ということに思いいたったのではないでしょうか。作品世界にこれを準備していた谷川流より、ここはやはりハルヒ恐るべし、というところでしょう。
日曜日, 2月 25, 2007
ドラマ:演歌の女王 第7幕 ラストまでの方向性は定まったとみた。
第7幕は前回のようなトリッキーなカメラワークは少なかったです。やはり前回が異質だったようです。
これは全くの憶測なんですけど、第6幕で大幅なシナリオ変更があったのではないでしょうか。長回し・アップの多様・隙間からのショットなどトリッキーな撮影は、土壇場での変更に対応するための苦肉の策だったのではないか、という気がします。この仮定から主な変更点がどこかと推理すると、萩本社長のエピソードがその可能性が高いです。
・全くの前フリなしでの離婚危機と事務所崩壊
・萩本社長がらみでのトリッキーなカメラ演出
長まわし:ひまわりのアパートでの離婚話、カラオケ教室でのやりとり
電話越しでの会話の多様、限定アングルからのカット多様
飛び降りを決心した屋上でのカットのアオリアングル
⇒空だけ写せばどこで撮ってもいいので辻褄あわせに使われることが多い。
・分かれ道のシーンにCG無し(第7幕で復活)つまり分かれ道の設定自体も変更あり?
以下、勝手な推測:
ヒロシの母を演歌で正気に戻すくだりの伏線回収があまりにも急だったのは、このヒロシの母のエピソード展開を軸に再構成した。
ヒロシの母については第7幕で真佐美との関係も含めて整理されているので、その後の地方営業への展開につなげるために萩本のエピソードを急遽準備したのであろう。
ならば第6幕で本来入るはずのエピソードは? これは、ひまわりの母と弟の話でしょう。この話はあまりにも急にまとめすぎです。だいたい傷害事件まで発展させておいて血を分け合ってめでたしめでたしって、いくらなんでも脚本が破綻してますがな。お陰で温水さんがまともにからんでこなかってでないの。最後の看板いたずらのとこだけ。あれだって、ひまわりの行動パターンからは逸脱してます。本当ならば第5幕・第6幕ぐらいにわたって親子関係の修復をじっくりとまとめ、最終回での父親との再会へつなげるつもりだったのではないかと。
方針変更はわりと明確で、
・1回ごとに話を回収する。単発で観てもそこそこ楽しめるように。
・エピソードの密度を上げてテンポを良くして視聴者をあきさせない。
・悪役のキャラをはっきりさせ、それを改心させるなどしてカタルシスを得られるように
・ある程度ヒロシへ駄目出しをして視聴者のフラストレーションを解消してあげる。
・特に天海キャラの強さをはっきりとする方向へ。
てなとこでしょうか。
酒井若菜のブログによると、第7幕の撮影終了は2/18だったようです。これ第6幕放映終了の翌日ですよ。編集作業その他を考えるとこの時期にしては結構押しているのでは。いわるゆ「撮って出し」ってやつ?
#まあ、TRICKでは次回予告が「まだ出来てなーい♪」ってこともあったけどね。
んー、本当のところはどうだったのかなあ。放映終了後に関係者から現場の情報があがらないなあ。
色々な意味で残り3回の展開を楽しみにしましょう。
#福田麻由子の扱いももうちょっと考えておくれ・・・・・・・・・
天海とのセーラー服対決は、ちょっと笑ってしまったが、もうちょっと台詞回しをひねってほしかったな。
水曜日, 2月 21, 2007
ドラマ:演歌の女王 第6幕 色々な意味で面白かった。ほんとに
正直、面白かった。最初からこのような構成・演出にしていたら15%以上の数字は確保されていただろう。ビデオ(もしくはハードディスク)に撮りだめしたままのあなた。騙されたと思って、第6幕(2/17)を観て欲しい。放送当初と似たような構造なのに、ここまで印象が変わるのか、と驚くであろう。
時間がないのでざっと印象を。
個人的に特にびっくりしたのはカメラワークである。
序盤のひまわりのアパートのシーンから、広角レンズの長回し。しかもかなりのハイテンポ・ハイテンションである。次のカラオケ教室での天海・段田の長回しでのやりとり。さすがである。役者の力量がいいテンポを生み出して、ここでのテンポのよさが終盤まで続く。
中盤以降もかなり大胆な構図、カット割りが続く。正面バストショット想定線上でのカット割り。俯瞰・あおり、はては実相時カットまで。好き放題と言ってもいいほど。けど、これらの演出全般が妙に今回のテンポにははまっていた。
カメラワークが気になる自分にとって、とぉっても満足でした。はい。
ただ・・・・・・
これがスタッフ達が目指した形のコメディだったのか、という点では疑問が残る。あまりにも伏線みえみえかつ予定調和な物語の回収(痴呆症の田丸母を演歌で正気に戻させる、など)。1話内で視聴者を満足させるべくのプロットの変更があったのではないか、という疑念がぬぐえない。今回の演出パターンの大幅な変更は、「単純に視聴者を楽しませるだけならいつでもできるんだよ」みたいな開き直りなのだろうか。
今回の長回しの多用も、もしかしたらシナリオ変更の影響なのかもしれない(だとしても結果オーライだが)あとTV局内でシーン、照明ミスのハレーションなど普通ならNGであろうと思われる絵が多々あったし。
低視聴率による打ち切り観測記事がうるさいようで、内部でもスポンサー向けに色々と大変なのであろう。テコ入れも随分強化されている(ハケンの品格との抱き合わせのSP、MusicLovers平井堅・天海競演、ズムサタのバックアップなどなど)
残りの展開を察するに、どうやら私が当初想定したような、「コメディの皮をかぶった社会派メッセージドラマ」の可能性は少なそうだ。ただ、まだまだ色々とやってくれそうな気配は濃厚である。折り返しを過ぎて、あと4回。どのように転んでも見物である。
どうか打ち切りになりませんように。
#Wikipediaに7幕が最終幕となっていたけど、さすがにこれは飛ばしだろう。
・・・・・って見直してみたら修正されてた。魚拓とっとくんだった。
他のブログでの第6幕レビュー
どらま・のーと 演歌の女王 第六幕『初の生熱唱が奇跡を起こした!!』
救え! 演歌の女王!!(Muhoの日記)
