月曜日, 8月 20, 2007

映画:「夜のピクニック」 原作イメージを見事に映画化

「夜のピクニック」の原作は第2回本屋大賞受賞作であり、詳細については改めて説明するまでないだろう。24時間かけて80キロを歩くという「歩行祭」を舞台にした青春ドラマを描いたものである。

 正直言ってこの映画、表面的な演出はすべりまくっている。

 カメラワークは説明過剰だし、ギャグやコメディはベタベタでグダグダであり、挿入されるサブエピソードもメインプロットとうまく絡んでこない。

 おそらくは、製作サイドが、特に大きな山場のない原作ストーリー(だからといって面白くないわけでは全然ないのだが)に映画的メリハリをつける、とか、青春モノとしてのお約束のパターンを入れよう、とかして結局滑ってしまった、という、よくある失敗パターンの典型のような気がする。


 が、しかしこの映画はやはり佳作として評価されるべきものだと思うのだ。

 それは、この映画では、歩行祭という非日常的なイベントの空気感が、フィルムの隅々にまで刻みこまれているから。この点につきる。

 特に大きな山場がないというのは原作でも同様なのだが、それは歩行祭というイベントそのものが物語の主体であるためだ。
 丸一日かけて長距離をひたすら歩くという極限状態の中では、日常の外面は脆くも剥がれて真に近い人間性見えてくるのであろう。この作品では、そのような極限の状況下で展開する、主人公達の精神的な葛藤と、“あるわだかまり”の解消、が実にうまく描けているのである。

 表面的な演出がことごとく滑っているにも関わらずこの映画が原作の空気感を見事に表現できた要因のひとつはキャスティングであろう。
 主役の多部未華子は言うに及ばず、石田卓也(時かけの千昭のCVだ)、西原亜希(JR東のSuicaキャンペーン)、加藤ローザは本当に原作のイメージにマッチしている。郭智博(戸田忍 役)だけは原作のイメージ(時かけの浩介みたいな感じ)とちょっと違ったが、映画的には石田とのバランスがうまくとれていたと思う。キーマンであるところの役どころを実にいい感じでこなしていた。

 そして、この映画を佳作ならしめた最大の要因は、多部未華子が提案したという“プレ歩行祭”の実行なのだと思う。主要キャストとスタッフで、ほんとに60kmぐらいの歩行祭をやってみたらしい。この映画で表現されている空気感はそこまでやった経験の賜物なのだろう。
 仮に、脚本の過剰な枝葉を排して、役者の力量と観客の読解力を信じて淡々と演出していればあるいは、「リンダ・リンダ・リンダ」の向こうをはった傑作ともなり得たのではないかと思う。そこがちょっと残念だ。


 わたしがこの映画を昨年公開初日初回に茨城の某所で観た時のことであるが、上映後に後ろにいた二人連れのおばさんが

 「ちょっとの間、青春時代に戻ったね」

と感慨深げに話をしていた。あるいは水戸一高のOBで(歩行祭のモデルである)“歩く会”の経験者だったのかもしれない。

この映画のキャッチコピー「映画を観ている間は18歳に戻れます」は伊達ではないなぁ、と思った。

おまけ
・「ピクニックの準備」という前日譚のショートムービー集も一見の価値がある。主要人物ごとの前日のお話である。これは元々は映画宣伝のためにネット配信されたものであり、事前に観ることを前提に作られているようであるが、後から観ても充分面白い。機会があればチェックしてみて欲しい。
(追記:ピクニックの準備を詳しく紹介したブログがあった⇒ブタネコのトラウマ
 なお、恩田陸の短編でも同名の「ピクニックの準備」という作品があるが、こちらは本編の予告編というか習作という感じのものであり、上記のムービーの内容とはほとんど関係ない。

   
・ちなみに「夜のピクニック」は8月22日(水)24:20~ (木曜0:20) 
 WOWOW で放送されるので視聴可能なかたは是非チェックされたし

・また、たまたまであるが、この映画の舞台である水戸のそば東海村で上映会がある。
 近隣の方はもちろん遠方の方も映画をみて歩行際の舞台を確認してみては。
 入場料500円とお徳。

 東海ワンコイン劇場「夜のピクニック」
 8月26日(日)、午前10時、午後1時、3時20分、5時40分 500円
 東海村船場の東海文化センター(TEL029・282・8511)。
※日時や内容などが変わることもあります。主催者にご確認のうえお出かけください。

水曜日, 8月 08, 2007

映画:トランスフォーマー スピルバーグのダークサイド本領発揮

トランスフォーマーを観た。

スピルバーグやりたい放題の映画。ご馳走様、と言うほかない。
世間的にはマイケル・ベイ監督の手腕が評価されているが、この映画のテイストは完全にスピルバーグのものだと思う。

トランスフォーマーの世界観と容赦ない地獄絵図のような戦闘シーン、幼児性と残虐性をエンタテイメント超大作で両立させ、しかも興行的に大成功させている。こんなことが出来るのは彼ぐらいのものだ。

市街戦描写は本当に凄い。非現実的なロボットが暴れていて破壊の限りをつくしているにも関わらず、直接には市民の被害の描写がない。だから戦闘の迫力を純粋に娯楽として楽しむことが許されているのである。どう観たって数百人単位で死んでるだろ、あれじゃ。

どこの戦闘シーンでもいい。仮に、人体損傷のカットを、いや血が流れるカットだけでつけ加えたなら、即プライベートライアン顔負けのR指定間違い無しのジェノサイドムービーになってしまう代物だ。けど仕上がりは大迫力のアクションモノ。
超映画批評では、

この映画の難点は、とくにラストバトルなど、トランスフォーマーが激しく動く際にカメラが寄りすぎて、逆に映像の快感度を下げている点だ。トランスフォーマーの動く速度のリアリティには相当力を入れたようなので、なるべくCGのアラが目立たないようにとの意味合いもあるのだろうが、こちらとしてはもっと引きの映像を入れてほしいと思う。

としているが、これはCGのアラを防ぐという目的ではないと思う。いくつかあった引きの映像ではどうしても怪獣映画の構図になっていた。特撮好き向けのロボットものとしてはそれでもいいのかもしれないが、やはりこの映画では、“圧倒的かつ理不尽な力に蹂躙される人間達”という視点を徹底したのだと思う。

それにしても、スピルバーグもうまいことバランスをとったと思う。
このバランスの実現については、マイケル・ベイの貢献が大きい。映像職人として弩派手なアクションシーンの構成力は、戦闘の激烈さを際立たせつつ、スピルバーグの残虐性をうまく覆いかくしている。元々プロットもテーマもおまけみたいなものだから、まさにベイ向きの映画だったのだ。

・・・・えーと、褒めてますからね。一応誤解なきように。


予告編だといわゆる侵略(インベイジョン)SFっぽい印象が強いのだけど、そういうわけで、本編はいきなりの戦闘で、メガトロンvs米軍 ⇒ メガトロンvsサイバトロン+米軍、という流れであり、米軍のプロパガンダとしてもいい線いってる。

ラプターやオプスレイといった最新鋭機も出てくるけど、インパクトはAC-130ガンシップが最高だね。「空飛ぶ砲台」の異名は誇張でもなんでもなく、左舷にのみ装備された重火器105mm砲を左旋回しつつ地上の一点に叩き込む姿は米軍の攻撃シーンの中で一番迫力があった。あれ本物なんだよねえ。

そうそう、この映画ロボット達のCG以外は極力ライブアクションで撮影したらしい。実際、その効果は映像の迫力に充分発揮されていると思う。現実に起こりうるアクションについては、まだまだCGでは及ばないところがあるのだな、と認識した。

#なにげにT2(戦闘機じゃなくてシュワちゃんのやつね)へのオマージュがあったのは何故だろな?
 カマロから自転車で逃げるとこだ。

日曜日, 8月 05, 2007

映画:エヴァ予告

たまたま終末に劇場に足を運んだので氷川竜介ブログで紹介されていた「エヴァンゲリヲン:序」の本予告を観ることができた。

うわぁわぁわぁわ!! 
まずい、やぱび、スイッチ入ってしまった。
一気に観たくなってしまった。
ってゆうか観る。観ねばならぬ


今回のリメークは正直については
「はいはい、機会があったら昔ハマったよしみで、お布施と思って付き合いましょうか」
程度だったのだ。パブリシティもあんまり張ってないし。

がしかし、現代の制作技術を投入して作成された映像クォリティの上でエヴァの世界がまた繰り広げられているのを見せつけられると、往年のエヴァオタの血が蘇ってきてしまったよ。

参った。また、公開毎に次の封切りまでじりじりさせらるのね・・・・

そうゆうわけで、エヴァで人生誤った類の人達はしばらく劇場に近づかないほうがいいと思うよ。
あ、もちろん公式サイトもね。

水曜日, 8月 01, 2007

電脳コイル12話:ヒゲイリーガル文明の興亡

電脳コイル12話があんまりにも面白かったので、ちょっと遊んでみる。


ヒゲ型イリーガル文明の興亡に関する一考察

彼らはどこから来て、どのように栄え、そして去っていったのか。
遺されている数少ない物証から考察してみよう。

1.彼らはどこから来たのか

 正確な場所はわからない。しかし、彼らの群生場所が初めて観測されたのがダイチの顔面、特に口周辺であること、また、その直前の2日間に、ダイチがイリーガルを求めて、旧電脳空間を広範囲に探索していたことから、このいずれかの空間―おそらく神社・寺院など―にその起源があることはほぼ間違いない。

 しかし、旧空間からの偶然の感染というだけでは、今回のような未曾有宇のイリーガルの大発生は考え難い。ダイチが短期間に複数の旧電脳空間を探索したこと、これが重要なポイントと考えられる。

 旧電脳空間は、大黒市のあちこちに存在しており、それぞれは相互に関連はないので、ちょうどガラパゴスのような固有な閉鎖環境となっている。たぶん、それぞれに何らかのイリーガルが存在しているのだろう。これまで今回のようなイリーガルの感染拡大が発生しなかったのは、仮に誰かがこれら旧空間のイリーガルに接触感染したとしても、旧バージョンのイリーガルは現行の電脳空間は長期間生存できなかったためと考えられる。

 しかし、ダイチが短期間に複数の旧空間を探索したことにより、ダイチに感染した旧バージョンのイリーガルは、旧空間と現行空間の環境に交互に晒され、その結果、彼らは両空間境での生存能力を急速に強化していったのではないだろうか。

 ある意味、ダイチこそ彼らの創造主であるといえよう。


2.何故彼らは栄えたのか

 文明が発展する条件、それは余剰資源である。古代文明では食料生産力、現代ではエネルギー確保が相当する。
 では、ヒゲ型イリーガルにとっての余剰資源とは何か。

  電脳空間における高度な情報処理能力である。

 もともと彼らが生存していた空間は旧バージョンであり、その処理能力は限定されていたものである。電脳空間は電脳ペットが存在できるように構成されているものであるから、基本的に人工生命が安定的に存在することが可能な情報空間となっている。ペットのような大型の生命だけではなく微小な形態の生命、ウィルスや菌といったものが自然発生する余地は充分にあるだろう。

 旧空間で小型で効率的に生存していた原始的なイリーガルにとって現行空間は極めて豊穣な空間であろう。ダイチのおかげで旧空間内生息しつつかつ現行空間の余剰資源にアクセスする能力を持ったイリーガルが、その資源を生存以上のものに向かわせるのは極めて自然な発展プロセスであろう。

 またヒゲ型という小型生命体であることも文明発展に優位に働いたと考えられる。
 イリーガルの生息域拡大の前例として11話の巨大魚型イリーガルがあるが、この場合は現行空間の資源をその生存のみに割り振り、巨大化という方向へしか発展させることはなかった。これはつまり1個体の生存に必要な資源(情報処理能力)が拡大していったため、余剰資源が発生せず、結局文明発展に向かわなかったといえる。

 電脳空間の情報処理能力とは、空間内においては物理現象そのものである。人間が物理法則を試行錯誤で組み立てていったように、ヒゲイリーガルたちは電脳空間の情報処理、おそらくはAPIを試行錯誤で取得していったのであろう。そしてその組み合わせによって新しい技術や電脳空間の利用の仕方を学んでいったのだろう。ちょうど錬金術から物理化学に発展していったように。


3.何故、口の周りに群生したのか

 ひとつの理由は、メガ婆の解析が示すように、旧バージョンからの空間が階層化して存在しているため。もうひとつは、口の周りには資源が集中し豊富であるためだ。

 眼鏡を顔面に装着するから顔周辺空間に情報処理機能が集中しているのは自明である。特に口周辺は音声認識・表情構成など認識処理に直結するエリアであるため特に情報処理機能が強化されているはずである。これはまた機能向上のため頻繁にバージョンアップされていることも推定され、上記の2つの条件が成立したのであろう。

 この推論により、メガ婆の髭が特にふさふさだった理由も想像に難くない。当然、猛烈に複雑なバージョンアップと電脳空間の機能アップをしているはずだからである。

 また、初期の感染ルートとして指先があったというのも同様の理由であろう。指は仮想キーボードの入力インターフェースであり、処理負荷が非常に高い部分である。


4.彼らにとって宇宙とは、そして神とは

 彼らにとっての宇宙とは現行電脳空間であり、そのままでは彼らが生存できない空間である。宇宙空間への進出が可能となったということは、イリーガルが自ら開拓した技術によって、新しいバージョンの空間への適応を可能としたということである。
11話の巨大魚は、これとは異なり、進化による適応であり、その意義は全く異なるものだ。

 ヒゲイリーガルの場合を例えて言えば、MACの古いバージョン(KT7あたり)のアプリが、自分でAPIを拡張してVMを背負ってVistaで平気な顔して動いているようなものだ。

 そして彼らにとっての神、ヤサコ様のお告げは技術発展の大きな牽引力となったと思われる。
 神のお告げの原理を探る行為はそのまま電脳空間のAPI解析に直結するし、神という存在が自己の存在意義という内的思索の要因ともなる。もちろん哲学者が登場するのも必然だ。
 
 文明末期において、彼らはに宇宙―電脳空間―をどこまで正しく把握できていたのだろうか。もしかすると神であるヤサコ様を通して人間世界の存在を把握するにいたっていたかもしれない


5.そして彼らはどこに去ったのか

 最終戦争により自らの文明を失った彼らは、ヤサコ様により約束の地を与えられた。
 しかし、彼らは文明の再興を試みることなく去っていった。
 彼らは何を求めていったのであろうか。

 高度な哲学的思考力を備え、また科学技術の粋を極めた末にそれを失った。
そんな彼らが追い求めたものは自己の存在、そして自己の起源であろう。

自己の存在形態に対して、あまりにもアンバランスに余剰資源がある電脳空間。それこそが彼らの文明を導きそして滅ぼした元凶である。彼らはそれに気がついたはずだ。

 「我々はどこから来たのか。そしてどこにいるべきなのか。」

彼らは去っていったのだ。彼らの起源である空間。

いわば彼らのうまれ故郷である旧電脳空間の地球へ。

そう、地球(テラ)へ。・・・・・・・・・・・・・・・ 寺へ

・・・・・・・・おあとがよろしいようで


#たぶん、爺さんが墓参りに行ったときにでも、起源の旧電脳空間を見つけたんだろう

#このオチを使えるのは30年ぶりの今しかない